2015年4月30日木曜日

お寺は交番、坊さんはお巡りさん

長く寺子屋をやっていますと「じいちゃんが亡くなった!」と当時の教え子(今は成人)が飛び込んでくることがあります。檀家以外の子もいるので、宗派や菩提寺が違うことも多々あるのですが、ご縁を感じてお手伝いをさせていただくようにしています。

6才から中学くらいまでを月二回、一緒に拝んできた間柄ですから、読経も想いも障害なくスッと修せますと、やっぱり嬉しいし頼もしささえ感じてしまいます。こうなると外野(よそからきた親族たち)の入る余地はなく凛とことが進みます。これが快感なんです(笑)

最近「坊さんって一体どんな存在ですか?」という問いをよく投げかけられます。有名人のような坊さんも増えてきたし、坊さんを理解してもらおうとメディアも活発に動き出しています。それが盛んになればなるだけ、皮肉なことに「坊さんとはなんぞや?」というような質問が増えてきます。困ったもんです。

本来、坊さんの働きは単純明快です。必ず仏前で唱える「仏・法・僧」の最後にたつ立場。それだけです。御仏から発信される力(仏)をしっかりと受けとめて、それを教えに則って(法)ちゃんと説くことを任されている人(僧)。御仏より、その教えより、目立つことなかれです。もっといえば「私なりの解釈」も「私の霊験」も要らないのです。もっとシンプルにそこへ行けば(居れば)伝わる人であるべきなのです。

私が小僧のころ、師匠はよく「お寺は交番と一緒だ」と云っていました。「要らんことを言うな」「的確に必要なことを伝えよ」「案内だけで十分じゃ。」いま想うとなかなか深いセリフだったなぁと振り返ります。

2015年4月14日火曜日

とりあえず完成させよう


私は子供の頃から「作る」ということが大好きです。大人になるにつれて100%を目指すようになり、完成がどんどん遠のいてしまっています。そういう時は一度にたくさん作って「このくらいでいいや…」と次の作品に手を出します。この手加減は70〜80%くらいです。でもそのほうが後々に「お、いいじゃん!」と良い評価を頂いたりします。作品なんてそんなもんです。自分の納得より、カタチをご覧頂く。ひょっとしたら「生き方」もその程度で良いのかもしれません。未完成より「完成」が大事、完璧より「カタチにする」ことが重要なのだと思います。

この時期、新入生、新社員の皆さんの多くの相談を受けます。そんなとき「テキトーとは違うイイ加減」が大事じゃないかとお話しします。完璧は無理でも完全は可能です。全うするということは「カタチにする」こと。納得はいかなくても完成させると、善いも悪いも評価を頂けます。それを素直に受け入れるとジワジワ成長できるもの。


画像は四国八十八ヶ所をお参りしながら、全ての札所で小石(土か砂利)を混ぜ込み、大師堂の御前で般若心経とご真言をお唱えしながら(10分弱で)完成させた『土ほとけ』です。慌ただしい造形でしたが、その瞬間でしか出せないお顔が生まれてきました。今じっくり拝しましても「自分の作品?」と自問してしまいます。「作品」なんてそんなもんです(笑)

2015年3月26日木曜日

『CGとリアルの差と先祖』

サイコロの裏という話がラジオから聞こえてきました。哲学の解説だったと思います。「6の裏は1」これは小学生でも知っています。絵に描いた「サイコロの6」は6であり、裏の1までを考えて表現をしません。だからそれは虚実である。そんな内容でした。

面白かったのは、そこからCG(コンピューターグラフィック)の話題になり、人間は感性をもって瞬時に本物かCGかを見破ることが出来るのだそうです。あの特撮映画『ゴジラ』も着ぐるみのほうが人気が高いのだとか。計算し尽くされたCGより、着ぐるみのリアル、そこには人の動きがあり、骨格があるのです。だから、少々チープでも見る側はそれを補って感情移入しやすい。

結局、人間は海面のリアルだけでは納得しない感覚を持ちあわせていて、その奥にある海中や海底の存在をも認識して「本物である」という感性を持っているのだそうです。そう言われれば、本物の弾薬を使った映画には内容とは別の凄みがあるような気がするし、CGの爆発シーンで一気に冷めてしまった記憶もありますね。

その理屈から先祖供養……法事に向かいますと、位牌なんてただの木製モニュメントにすぎませんし、お墓も石の塊だと思います。でも、そこに「サイコロの6の裏側1」という存在感、今の自分の裏側には先祖が在るのでしょう。先祖は目に見えないけれど、いらっしゃったからこそ今の自分が実在するわけで、決してCGのような「ツクリモノ」ではないのです。

恐ろしいのは、生まれてこのかたずっとCGを本物だと思い込んでいるが如く、今の自分が全てであると過信して「裏側の1」に気づかない、いや信じない人々が増えつつあるのではないかということです。神も仏もありゃしない……これが凄くスマートでインテリであるという錯覚。宗教者はCGではなく、本物で勝負すべきだと強く思います。坊さんでさえ、ツクラレタモノを好み、それを演じる時代が来ているような気がします。今こそ、リアルに生きるべきだと思いますし、見極める力は個々でしっかり持つべきでしょう。

2015年3月6日金曜日

『住職の手悪さ』

かの大仏師・西村公朝さんは子供のスヌーピーのぬいぐるみに仏さまのお顔を描いて「スヌーピー仏さんや」と無邪気に喜ばれたと云います。「一切衆生悉有仏性……物にはすべて仏さまがいらっしゃる」ということをわかりやすくお示しになったのでしょうね。



何にでも仏さまを描くとニッコリできます。殺伐混沌とした世の中なので、私はいろんな物にお顔を描いてみようと思い立ちました。ほら、ずっと付き合っている指だって立派な仏さまなんですよ(笑)

2015年2月28日土曜日

Twitterのつぶやき程度で解決を

すこし時間ができたら「プチ相談コーナー」を開設したいなぁと思っています。こんな感じで。

問:庭や家の敷地内にタバコのポイ捨てをされて困っています。どうしたら善いでしょう?

答:捨てられないくらいの美しさを保つ。凛とした空気とは「隙のない空間」のこと。看板で解決する問題じゃない。悔しがる前にすぐひろって捨てる。落ち葉には腹が立たないのなら落ち葉と思って取り組みましょう。

Twitterのつぶやき程度(140文字)でドンドン答えられたら面白そうです。もちろん言葉足らずはありますし、ちゃんとした信仰という軸がないと語弊もあるかと思いますが、悩みに対する答えなんてこの程度、簡潔なほうが役立つのです。ご期待ください。

2015年2月26日木曜日

自分にあった「み教え」の見極め方

今朝(2015/02/26)のもんぜんほうわ
『自分にあった「み教え」の見極め方』

各地で法話に出かけますと、よく「何を信じていいのかわからない」というお悩みを耳にします。それは「〇〇教を信じるべきか?」という意味ではなく、「あの宗教は正しいのか」「お坊さんの言っていることが信じられない」といった、喩えるなら、もう手にしてしまった本の内容が間違っていないか? という再確認ばかりです。

私はいつも「仏教と出会うきっかけは健全なときに」と説くようにしています。何か遇ってからでは冷静な判断はできっこありません。腰を痛めた状態でスポーツジムに通うようなものです。下手するとこじれてしまう。よく「死をきっかけに」とおっしゃる人もいます。これもオススメじゃありません。信心は、負(マイナス)から始めることではないのです。

〇〇は正しいのか?
〇〇は自分に合っているのか?

そんな壁にぶつかったら、ぜひ「自分の理解している範囲で判断する」ことを実践してみて下さい。例えば、歴史書を買おうと迷う。どれもビミョーに内容が異なる。そんな時どうしますか?答えは簡単で、自分の知っている記事を探して読むことです。その記述が自身のそれと同じなら(正否は別として)ググッと心に近づくでしょう。要は自分の持っているモノと比較してセレクトするしかないのです。

宗教が絡むと「大病」とか「奇跡」とか、はたまた「反戦」など、とても日常では味わうことのできない見出しに踊らせれることも氾濫しています。でも、大事なのは日常……平凡なこと、フツーの生活なのです。

私のオススメは「慈悲・じひ」あたりの語句をいかにわかりやすく、今風に納得できる説法をしてくれるか? 極楽(ごくらく)でもかまいません。簡単でズバッと響く説明と実践方法をサラッと説いてもらう。そこで「むむむ……」と意味不明(自分の知識の含む)ならば、それはちょっと合わないのかも……と様子を見るのも一手だと思います。もちろん、理想論ばかりの教えも外すべきです。非日常の修行体験なんぞ、凡夫には理解不可能なのですから。よく出来るインストラクター(お坊さん)は、日々のカリキュラムもちゃんと組んでくださるし、その方も行じておられます。説得力はそこにしか生まれないのですからね。そして大事なのは正しい教えは「信じなさい!」「やりなさい!」とは切り出してくれません。すべては自分の発心(ほっしん)によるものからってこと忘れてはなりません。

2015年2月23日月曜日

真言宗の「〇〇派」はプロ野球っぽい?

おはようございます。ヌルい朝です。

よく「同じ真言宗でも〇〇派って言いますけど、交流はあるのですか?」と訊かれます。大きく分けても18の本山があると云われています。地域差はあると思いますが、基本的には同じ「派」で行動することが多いので交流は頻繁ではありません。

昨夜は近所のお寺(ご住職)のお通夜でした。昔は深い繋がりがありましたが、今では「派」の影響でほとんど交流はありません。私自身、お邪魔したのは20年ぶりくらいでしょうか。

控え室にズラッとお揃いのお坊さんは私ともう一方のみが「高野山派」、あとは京都の「御室派」でした。支度の時点でさまざまことが微妙に違うんです。作法も拝み方もちょっとずつ違う。もちろん両方を学んでいるので戸惑いはないのですが、なんだか不思議な感覚になりました。それは「なんでやねん!違うやん!」というものではなく、長い歴史(1000年以上)の中で小さな進化を重ねてきたもの。なんだか誇らしい感覚でした。

気持ちよくお勤めをさせてもらってふと思ったのですが、この状況はプロ野球に喩えるなら「セ・パ」みたいな感じかなぁと。一気に俗的になりましたが、それが一番わかりやすいかと。ストライクゾーンや小さなルールが違う。でも、どちらもそこに面白さ(素晴らしさ)が在るんですよね。