2014年12月19日金曜日

寒さの中で鬼となる

日曜日の朝、父が79才で旅立ちました。突然の死別にしばし呆然としてしまいました。思いっきり泣いたあと、不思議と吹っ切れました。そこからは父が生前の頑張っている姿ばかりが浮かんでは消えていきました。

白黒写真の技師だった父は、自転車で30分かけて手作りの暗室に通うのが日課でした。真冬でも出かけていきました。冷たい水に手をつけて延々と印画紙と格闘していました。帰宅するとその冷たい手を私や弟のホッペに押しつけて「冷てかろぅが(冷たいだろうが)」と笑っていました。幼心に「仕事ってたいへんじゃなぁ」と思った記憶があります。

昨夜、空手を習っているチビ達(中二、中一、小一の男子)が「今夜の道場は寒かった…」と震えながら帰ってきました。週3回、平日は夜7時半から9時までの稽古。7才の末っ子は、暖房の効いてる部屋に戻るなり「死ぬかと思った…」と泣き出しました。道場はプレハブで床は板張り。足の裏からくる冷たさは尋常ではないでしょう。

私は毎朝、外で水行をします。昨朝の水行は蛇口が凍っていました。なんとか解凍して被りました。被った水が流れ出すと、体温を持った水だけが湯気を上げて流れていきます。身体を拭くタオルはシャリシャリと音を立て出しました。

本格的な冬の到来です。

私の尊敬するヨガの先生は、インドで灼熱の修行を3週間したのと、北部で氷点下の中で半日修行したのでは、北部での経験のほうが身についたと教えて下さいました。また、5才から本堂の回廊を雑巾掛けしているチビ達は最初40分かかっていましたが、真冬を経験してたった15分で出来るようになりました。

寒さは極限の心境を与えてくれます。決して無理はしてはいけません。でもちょっとした無理が鍛錬となるのです。悠々としている余裕を許さない激寒は自心を鍛えてくれます。うちのチビ達には、これといった取り柄はありませんが「寒さを嫌がらずサッと動ける力」は身につけています。勉強も大事ですが、これが何かと役立っているようです。

甘えは「心を鬼にすること」でしか抑えることは出来ません。子供、部下、後輩……まずは己が何かを科せねば鬼にはなれません。私は父の姿、チビ達は私の姿で頑張っています。伝えるとはそんなもの……親がお湯で洗顔しているようでは子供は甘えてしまいます。

2014年12月3日水曜日

堅いと賢いは似て非なり

この不景気でナニゴトも思うようにならないという愚痴をよく耳にします。放送業界なんてモロにその影響を受けているようで、私が関わっているだけでもかなり苦しそうな印象を受けます。会社と現場……会社は「少人数で低予算、安いタレントで作れ」と煽り、製作は「こんな予算じゃ、こんなタレントじゃ、ロクなものが作れない」と開き直る。こう書くと会社が一方的に悪いように映りますが、予算があればあってしょーもない所に金を使う現場にも問題はあるので「メディアうぬぼれ」の悪循環は止まることを知りません。

これを打開するにはセンスと度胸しかありません。「これだけの予算で?」と愚痴るのではなく「よっしゃ、これで一発かましてやる!」くらいの威勢が必要です。それで結果を残せば、上からはまた「な〜んだ、この状況でイイもん作るじゃねーか」とますます苦しい条件を突きつけてきます。ほとんどの現場は、それに耐えかねて逃避してしまいます。これは苦しいからを理由の全面に挙げますが、実はプライドが許せなくて逃亡しているだけ。そのパターンがほとんどです。もったいない。

この状況の打開策は、どんな悪条件でも善い仕事をして結果を残すしかないのです。3つも4つもクリアしていって初めて「やるな、お主!」となるのです。序の口で結果を求める心意気こそ愚かなこと。やって魅せればイイのです。

企画が通らないと嘆く人にもよく出会います。企画なんて車検みたいなものです。企画=アイデアという感覚を一度捨てて、企画は「決まり事」だと割り切ってみる。厳しくつまらぬ頭でっかちの眼をかいくぐって、企画を通すことに専念する。そこの評価は社内(身内)なのだから気にせずにお利口さんぶって通すことに力を注ぐ。

通ってから(車の例えは不適切ですがご勘弁を)改造しまくればいいのです。製作の過程でどんどん枝葉を茂らせて、面白いものを作れば良いのです。お寺なんてその繰り返しです。「本堂を新築します」と宣言するとほぼ100%の確率で反対されます。それを「少々、改築いたします」と発すれば、不思議なもので50%の可能性が出てきます。柱1本遺した工法でも改築となるのです。ウソをつけというのではなく、方便としていかに理解を求めるか。もちろん、その先に素晴らしい結果を出すことが絶対条件ですが。会社が悪い?いや、それは違います。本人の頭が堅いだけなのですよ、実はね。堅いと賢いは似て非なりなのです(笑)

2014年11月29日土曜日

施しを快く受け取ることも施し

先日の縁日、朝10時からお勤めをして昼前には片付け、サッサと昼食を済ませて、賽銭箱を見回りをしに境内に出ました。その時、ちょうど山門で一礼する初老の男性をばったり出くわしました。私は何気なしにチョコンと頭を下げて本堂へ向かいました。すると後から追いかけてこられて「ご無沙汰しております」と声をかけられました。私が思い出せずにいると「以前、母を祈願してもらった者です。あのクラシカさんで……」と切り出してくれました。あの時の! ……私も記憶が繋がり、一気にその場面が蘇りました。

その男性は、兵庫から写真が趣味でよく1人で倉敷の美観地区を散策していました。そのとき偶然立ち寄って下さったお店が私の両親が営む雑貨店・倉敷クラシカでした。そこで私の仏画作品に出会い、事あるごとに買い求めてくれました。しかしちょうど1年前、お母様が脳の病で突如倒れてしまい危篤に陥ってしまわれました。その時、藁を持つ噛むつもりで、クラシカを訪ねてくれて私に祈願の伝言を残して帰られたのでした。あれから1年、なんとか一命は取り留めたという報告は頂きましたが、それ以来どうなさっているのか知る術もありませんでした。

そしてこの日、ご報告とお礼参りに来られたのでした。「ご縁とは不思議なもので……」と、涙ながらに奇跡を喜び合い、しばらく本堂でお話しして、報恩の読経を勤めさせていただきました。そして男性はこう話してくれました。「これまで母に何ひとつしてあげられなかった。だから私の余生は母の介護ためにと張り切っていました。でもこの前、私の洋服のほころびを不自由になった母が手を振るわせながら修繕してくれたのです。母は母としてやっぱり私の世話をやいてくれる。私は母のためにと力む自分が情けなくなりました」

口では「やるもんじゃない、させて頂くのだ」と言っても、人はどこか恩返しだとか、感謝のしるしだとか、大義をかざして施そうとします。でもどんなに年老いても、どんなに不自由であっても、母から見れば子供は子供。一方的に施してもらおうなんて思ってはいない。施しとは「施されることを快く受け取ることも施し」なのでしょう。男性は晴れ晴れしたお顔で「ご縁って不思議ですね。倉敷から兵庫の母を祈って下さる。息子はそこでまた学ばせて頂く。ご縁はあとから感じるだけでなく、感じたからこそのご縁ということにも気づかなきゃいけませんね」とご宝前で深く一礼なさ、帰路につきました。

2014年11月27日木曜日

知りすぎて地獄を彷徨う

本日は月例祈願の日『お不動さん』です。午前10時から本堂にて。護摩行と法話を勤めます。ぜひお参りくださいませ。

しばらくこの法話も間が空いてしまいました。11月はどうしても出仕(よそのお寺への手伝い)が多くて留守をしがちになってしまいます。同時に『うたかたり』の公演や法話会も続きました。そろそろ落ち着きますので、またよろしくお願いいたします。

留守中、ある事件がありました。事件といっても些細な事。でも考えれば考えるほど、気味悪く最悪の事態に想像が傾く出来事でした。

10月から境内東側のスペースの土地改良が始まっています。もともとあった無縁仏の合肥を移転して、駐車場の拡大をしています。その前に排水や土壌の改良を進めているのですが、11月に入り一旦工事を中断することになりました。事情は、業者の連携問題で「お手すきの時に」という条件だったので想定範囲内のことでした。大きな重機(油圧ショベル)を1台、次の工事まで置かせておいて欲しいと言われ、断る理由もなく快諾しました。

ところが先週のことです。庭掃除していた母が「動いとる!動いとるで!」と駆け込んできたのです。見に行くと、ショベルが50センチほど動き、立入禁止のコーンをグチャッと潰しているではありませんか。その痕跡に正直ゾッとしました。何者かが侵入し、重機を動かそうとしたのです。なぜに? こういう時の脳みそは恐ろしい回転をするものです。


・長らく放置されている重機をみて何者かが盗もうとした。
・10代の若者によるイタズラの疑い。
・いや、それはきっと外国人の仕業である。
・なぜなら外国では高く売れる。
・それとも解体して材料として金品と替えようとしたのか。
・寺を面白く思わぬ勢力が、重機を動かして破戒しようとした。
・窃盗団がATMを破壊するためか。

などなど、自分でも呆れるほどの不安要素と事件性がどんどん沸き出るのです。これに家族の補足も加わり、ついには自警団の設立までに発展していきました。こういう時は得てして、重機の持ち主に連絡が遅くなるものです。ハッと我に返り「すぐに確認を!」とお願いしました。すると……温度差で油圧が変化し、自然現象として誤作動しただけのこと。この種類の動きは、現場では日常茶飯事だと一笑されてしまいました。

とんだ勘違い、赤っ恥でございます。笑い話で済んでよかったと苦笑いをしながら、人の不安など「こんな繰り返しかもなぁ」と独り納得してしまいました。情報が多くてもが貴苦しむ。知らぬが仏と云いますが、現代は「知りすぎて地獄」なのかもしれませんね。

2014年11月13日木曜日

私と弟、そして父親と……

私は絵を描きますが、家族の中では一番ヘタクソです。中でも父と弟はズバ抜けて上手い。弟はそのまま芸大にすすみ、今では東京で画家として活躍しています。だから誰の批評より、家族の意見が厳しく身に沁みるものです。

弟の語録はなかなか含蓄があって好きです。例えば、芸大を目指す人の意識について訊ねたら「上手く描きたいと望んで門を叩く人は五万といるけど、そこに至る技、例えばデッサンをそこで学ぶのか、それをクリアした上で学ぶのかで成功のレベルが違う」とか、苦手な画法について訊くと「10代ならそれを克服すれば間に合うが、それを越えると短所は短所のままにしておいて、得意技(長所)をとことん表現すべき。現にアニキの作品に対して、お金を出してくれる人がいるわけだし、そこは大切に想うべき部分だよ」とか。

こんな感じで常に新しい刺激を与えてくれます。そんな言葉を聞くと、モノクロ写真技師であり写真家である父親の影響は私より弟に引き継がれていると心から思います。またこれが、兄弟でお坊さんだったらこんな風にはならなかったかも知れません。共通なのは、父親ゆずりの頑固なところ……その隙間にお互いが潤滑油となっているような気がします。そんな父親は、本日78歳の誕生日を迎えます。本当におかげさまです。

さて最近、若い人と接していて思うのですが、どこか卑屈でどこか素直じゃない……そんな人が多いような気がします。せっかく恵まれた体格や才能、センスを持ち合わせているのに「何も出来ない」「そのレベルの中では大したことはない」「無能だ」と自らが戦わずして放棄しているようなセリフばかり。貧乏はしないに越したことはないけれど、社会においてある意味、サバイバルな状況になった時、それを脱するのは自身の技量でしかないと心から思います。

私の大好きなイラストレーターは「1つのデッサンを完成させるためにコピー用紙を30も使うんですよ!」とおっしゃっていました。30とは枚数じゃないのです。30㎝積み上げるほど描き続けるのだそうです。驚きでしょう。でも本職とはそういうものです。私とて、新客殿建立の際に数千万円が不足して路頭に迷いました。そんな時「ご寄付が難しいなら作品を描いて売ればいい」と無償で大量の和紙をくださった人がいました。それしかないと決定(けつじょう=心を固めること)し、ひらすら仏画を描き続けて今の画風が完成しました。なにがホンモノかは未だわかりませんが、付け焼き刃じゃないどうにもならないってことだけは知らされたような気がします。

2014年11月12日水曜日

即席・淨業法

「おもてなし」という言葉がメジャーになりました。でも「言うのは簡単、やるのは難し」の世界です。真言宗のお坊さん的には「おもてなし」より「お接待」のほうが重要で馴染みが深いのかもしれません。口でどれだけ媚びへつらっても「お接待」の真意が表に出せる人はどれくらいいるでしょうか。

お客様に真心こめて……なんてセリフ、口に出した時点でアウトです。当たり前のことなんですからね。よく「欲を捨てて」という言い回しにもなる。これも難しいです。人はどうしても「見返り」を期待してしまうもので、せっかくお接待しても「お礼を言わなかった!」なんて言い出す始末。

このような状態を賢者に相談すると「我欲を捨てよ、無心になれよ」と説くでしょう。でもそれが出来ないから厄介で、いっそのこと思いっきり「見返り」を求めて取り組むという方法もありじゃないかと私は思います。ギラギラネチネチした欲望の権化になりきって、見返りのみを求める言動。その見返りを高く設定するとこれがなかなか難しいもの。「どうしてだよ!」という不満も相手にではなく、自分にぶつけ出すことでしょう。そうしているうちに、相手から絶大な感謝をして頂く。自分ではそんなつもりはないのにね……心内は見えていないわけだから、相手には淨業に映る。バカ正直に取り組んでヤサグレルくらいなら、結果がオーライもあっていいのです。

この間、寺子屋で不真面目な子供がいました。罰として境内の掃き掃除を言いつけてやりました。不満タラタラ、不服な表情の大洪水、嫌々の権化はホウキを持ちました。そこへおばあちゃんが参拝にやってきました。その姿をみて「アンタ立派ねぇ、こんなにキレイにしてくださって」と褒めてくれました。その子は私を見てニヤッとVサインをして、余分に掃除をしてくれました。

淨業なんてそんなもんです。自分に何をどう科せるかではなく、相手がどう受けとめてくださるか。腹の底なんてどうでもいいのです。綺麗ごとばかり掲げて、自身でストレスを抱えるほうがよっぱど不健康だということです。

2014年11月11日火曜日

予知を真似する

週末、寺務所のデスク周りを片付けていました。パソコンが3台もあってどうも使い勝手が悪い。おまけにメイン機が壊れてAppleに入院してしまう。こういう時こそと奮起してレイアウトを一気に変えるべきだ!と張り切りました。

しかし見渡す(見上げる)と、そこに布教資料や書籍、趣味のフィギュアやプラモデルまで山積みしていて、ワイヤーラックもかなり危険な乗車率。これを全部下ろして動かすには相当の覚悟がいると判断した私は、重そうな物だけを下ろして、一人でラックを動かすという暴挙に出ました。

ジリジリと動き出したラック。「お、調子いいぞ!」とニヤリする私。その瞬間、一番上の棚にある木像の布袋さんと目が合いました。この布袋さん、昭和初期の名のある仏師さんの作と伝わるお宝。もともと七福神として製作されていたのに、2体が先にばら売りされてしまい、激安で一番出来の良かった布袋さんを分けて頂いたという思い出の代物。素朴で大好きな作風なんです。

その時の行動はすべて脳裏に1秒先が映し出され、そのあとに現実が伴う、そんな錯覚に陥っていたような……いま思えばそんな気がします。布袋さん、グラッと上段から転げ床に落ちてガツ〜ン!、そして一部が欠けてしまう。それを嘆く自分の姿……完全に予告を観ていたにもかかわらず……内心どこかで「大丈夫や」と強行をしてしまいました。すると案の定、予告編通りにみごと転落。思わず「痛っ!」と声を上げるほどのショックが私を襲いました。それこそ後の祭り……。

そんなこんなで自分の愚かさを責め立てる週末となったわけですが、よくよく考えたら「予知」なんて誰にでも出来ることであって、それを参考に実践するかしないかが個人差、能力の有無じゃなく、それに従うか否かの問題。必ずそれが起こりうる僅かな瞬間、その映像や体感を得ているのに、横着や慢心でそれを参考とせずに無視して愚行に走る。「参考」なんて言葉、よ〜く見ると「考えが参ってくる」と記すわけで、それが上手くいかないのは、ただただ自分が自分に素直じゃないからでしょう。

ここではマイナスを愚かな私の事例で記しましたが、その逆もあるわけでその感覚を大事にすれば、きっと成就なんて願わずとも叶うのではないかと思うのです。「一瞬先は闇」の逆、一瞬先は明るいと信じ切る。その一瞬に立ちふさがるちょっとした手間や抵抗。そこで「ま、いいや」と投げ出さず、その予知の通りに真似をしてみる。マイナスが映った場合は真逆をしてみる。そうすれば、スイスイと乗り越えられるはず。予知の「予」は「前もって」という意味。一瞬でも未来に知っているからこそ、失敗を回避し、成功の物真似をする。それを実践すると、面白く転がる率は大幅に上がると思います。(英語なら「予」は【in advance】でいいのかなぁ?)そんなことを布袋さんに教わった気がします。さ、修理しましょ。

2014年11月10日月曜日

脳が説く仏教!?

脳科学はまだまだ謎だらけだそうです。最新、といっても次々新しいことに塗り替えられてしまうそうです。

私も参考させてもらっています。これも雑学程度、仏教に結びつかないかという観点専門なんですけどね。たとえば、脳を真横から見ると上部は「想像」を司るそうで妄想なんかもここがフル回転しているのだとか。脳の凄いところは、その部分が成長するのそうで、昔から「オデコが広い人は賢い」とか「頭の大きい人は天才だ」だなんて言い方はまんざら偶然でもないのかも。

また妄想を瞑想に置き換えますと、どんどんそこで善い状況(仏の世界)を想像していく。もうパンクしそうなくらい善いコトだとけ延々考え続ける。これが座禅瞑想なのですが、これを最初に行じた人がお釈迦さまでしょう。お釈迦さまは極限までそれを行って、頭頂部がメキメキと盛り上がってきた。そうそう、如来さまのコンモリした部分ですね。それを肉髻(にくけい)と呼ぶようになった。そんな仮説も楽しいものです。(あくまでも私の勝手な想像ですよw)

また、これまでは「行動」は脳が手足に命令を下して、実行に移っていると考えられてきました。しかし、最新の研究では行動のほうが先で、0.0何秒遅れて脳が働くということが解明されたそうです。となると例えば殴った後に、脳が慌てて言い訳(理由)を考えているのだと考えられるわけです。これを私たちの教えに置き換えると「懺悔」の理由も変わってきます。真言宗では仏前勤行次第の先ず最初に「懺悔文・さんげもん」を唱えます。中には「悪いことをやっていないのに!」と疑問を言う人もいます。でもこの理論を当てハメれば、ちょっと見方が変わってきます。やってしまった罪科を後から懺悔することがキリスト系ですが、仏教はやる前に懺悔する。仏教はものすごく不合理だと言われ続けてきましたが、手足に「やっちゃダメ!」と言い聞かせることが目的が理由なら納得もいく。罪は犯さないほうがいいもんね。脳の仕組みと比べて仏教をを眺めると、合理と不合理が逆転する日も近いのかもしれません。まったくの私感ですが……(笑)

2014年11月9日日曜日

知らぬが仏を読み解く

法話をしていると「仏」という定義に悩むことがあります。私が説く「仏」の軸は不動ですが、お話を聴いてくれる側の「仏」のイメージはさまざまなんです。それは辞書で引いてみると明確です。goo辞書によりますと、


 仏語。悟りを得た者。仏陀(ぶっだ)  特に、釈迦(しゃか)のこと。「―の慈悲にすがる」 仏像。また、仏の画像。「―を刻む」 死者。また、その霊。「―になる」「―が浮かばれない」 温厚で慈悲心の深い人をたとえていう語。 仏法。 仏事を営むこと
どれをイメージしていますか? この着地点が異なると理解どころか、よけい迷ってしまいます。浄土真宗では阿弥陀さまを指しますし、真言宗では即身成仏(そくしんじょうぶつ)を説きます。すでにこれだけで大混乱でしょう。それに時代劇や刑事ドラマでは、死んだ人を「ホトケ」と呼びますし、仏像を拝観する対象も「ほとけ」。私はそれらをふまえて説こうと四苦八苦しています。

そこでよく引用するのが「知らぬが仏」という諺です。ここでいう「仏」とは何か? これって人を指しているんです。知らないから仏で居られる。それなら、この「仏」を想像してみましょう。何も知らないから「穏やかに安定している」状態。知っちゃうからイライラ腹が立ってしまったり、悔しくてメソメソしてしまう。ここが理解出来れば、私の説く「仏」もわかってくるはず。この話は小学生にもよくしていますが、なかなか手応えです。これがわかれば、今度はどんどん「〇〇が仏」を考えると楽しくなります。
知らぬが仏、読まぬが仏、聴かぬが仏、食わぬが仏、覗かぬが仏、やらぬが仏
いくらでも出てきます。しかしこの「〇〇」は消極的にという意味ではありません。何事も謙虚に……そうすることが「仏」で居られる。そんな方程式からいろいろ展開できそうな気がします。

2014年11月1日土曜日

[住職]か[職住]かで考えてみる

新潟、東京に行ってきました。3日はまた名古屋方面です。

東京では懐かしいお顔や出版関係者と分刻みで会うというタイトなスケジュールでした。話題のほとんどが新書の企画だったのですが、やはりいろんな意味で「仏教」という括りに温度差があるなぁとつくづく感じる旅となりました。

都会はお寺が少ないのか? 坊さんが遠いのか? 仏事が難解なのか? 出会う方のほとんどが「先日、身内に不幸がありまして……」という切り出しで、そこから仏教に対する疑問や不満が吹き出て、それに対して弁護したり補足をしたりする流れ。いつもこれだなぁ……と苦笑いしながら、とにかく全部を聞いてみちゃろうと耳を傾けました。

すると、大きな傾向が観得てきました。それは、葬儀あるいは法事がきっかけで坊さんを観察する人が多いということ。その短時間で「理想の坊さん像」を懸命に照らし合わそう試みる。そして到底、理想とは違うという失望とそこに発生するゼニカネに愕然として、正義がヒールに転じてしまう。これが現実のようです。ずっと語り続けていますが、この問題にはどちらにも非はあると思います。しかしちょっと角度を変えて「職業」としての坊さんを説いてみたら興味深いと思います。

日本の坊さんが許せない派のほとんどが「大した仕事もせんくせに、外車に乗って高級な腕時計をつけゴルフ三昧だ」的な中傷です。大した仕事=法務、その他はプライベートに当たります。そこが目につき鼻について「許せん!」となるのだと想像します。職業という観点からみれば、坊さんも収入を得ているわけで別に目くじら立てることではないのですが、そうはいかないのがこの世界です。

そこで提案するのが、先代がよく面白オカシク立てていた論です。あくまでも持論、言葉あそびのレベルなので、本気に噛みつかないで欲しいのですが、[住職]と書くのは「住する職」という意味。「お寺に住むから」という答えは子供にだって出せる。でも、もうひと捻りしてみると「心に住む」とか「仏の世界に住む」などという表現も出てくる。それを職業としている。衆生は、そこに「安心」と「信頼」を求めているのでしょう。それが[職住]と逆転しちゃうとたいへんです。「職業(商売)として寺に住みつく人」こうなっちゃおえん(ダメだ)と先代は笑っていました。

置き換えるといろいろ出てきます。「医師」は「医薬を操る師(マスター)」、「者医」になると「マスターぶって医薬を処方」。「先生」は「先に生きた経験に導く」、「生先」となると「生まれたこと先ずひけらかす」。ま、屁理屈をぬきにして言葉あそびのレベルでフムフムとお楽しみください。

2014年10月26日日曜日

2つ返事でため息は生まれない

本日は高蔵寺秋の大祭『施薬祭・せやくさい』です。お護摩や大般若転読、法話、芸能奉納など盛りだくさんのお祭です。美味しい中華粥のお接待や、住職手作りの土ほとけのお授けもあります。午後2時から厳修します。ぜひお運びください。

さて今朝は子供の話題です。寺子屋(毎月第2、4土曜開校)で子供と接しているとこちらも元気をもらえます。これが大人だと一緒にため息をつくことすらある。この違いはなんでしょうか?

2つ返事という言葉があります。「やってみるか?」「ぜひぜひやってみよう!」会話で表すとこんなノリでしょう。子供にはこの勢いがあります。大人はそこが慎重です。やってみなけりゃわからない。失敗も楽しんじゃう。子供にはその勢いがあります。もしお子さんにこの勢いが失せてきたら、そこはなんとか保つ努力をしてあげたいと私は思っています。

昨日の寺子屋はバルーンで遊びました。細長い風船で何かを作ろうと盛り上がりました。1人の男の子が犬を作るとみんなが真似して犬だらけになりました(笑)そのうちに犬に飽きて、鉄砲とか剣を作り始めました。女の子が自慢げに何かを作り始めました。みんなは興味津々で囲んで彼女を見守りました。

その時です。バーン!もの凄い音を風船は割れてしまいました。女の子はしばし呆然。驚きと恐怖、そして情けなさで今にも泣きそうな表情になりました。すると周りの子供たちが「あー、びっくりした!」と笑い始めました。すると風船の残骸を集めた子が「これ変なカタチじゃぁー!」と言い出しました。その場は一気に笑い声で包まれて女の子も元気になりました。

ミスや失敗もこんな単純な連鎖で救われる場面が数多くあるのではないでしょうか。大人になるも余分の風船まで割って、騒ぎを大きくしているような気がしてなりません。子供に学ぶことはまだまだたくさんありますね。

2014年10月24日金曜日

受話器にてたった8分の説法

カレンダー原画の製作に追われた昨日の午後。夕方、1人で留守番をしながらデータの最終チェックをしていました。そこへ1本の電話。「和尚さん?」と聞き慣れた檀家の奥さまの声でした。「いや〜、おってくれてホッとしたわ」と明るく相談を切り出されました。

「うちの仏壇にはたくさんのお位牌があってね、50年以上経ったものは一つにまとめたいんよ。よう拝んでもらってから繰り出し位牌に入れたいから、戒名板(木の板)に書いてもらえる?」という内容でした。このような相談は日常茶飯事で、うちとしては別に間違った方法でもないので快諾すれば済むことなんですが、ここからが大切な説法になります。

住職:なぜに?
檀家:たくさんあり過ぎるから
住職:少なくすればどうなるの?
檀家:スッキリするかなぁと思って。
住職:見た目?心?どっち?
檀家:う〜ん、見た目かな。
住職:心は?
檀家:微妙……だからご相談している(笑)
住職:お位牌はシンボルだし、その人の存在を示す唯一のカタチよ。
   だからまとめてスッキリするという気持ちの前に
   たくさんに見守ってもらえてるという気持ちもないかなぁ。
檀家:………。
   実は周囲がそういうことを勧めるから、つい………。
住職:50年以上のお位牌の中には100年以上のモノもあるでしょ?
   あれは今から作れないし、それだけの先祖がいたご家庭も少ないよ。
檀家:……ですよね。
住職:まとめるお手伝いはいつでもするので、しばらく手を合わせてみたら?
檀家:はい、そうします。
住職:娘さんも年頃だし、ご婚約の時には両家の仏壇は不可欠ですよ。
   もちろん祀らない家も多いけど、そこはね……、
檀家:そうなんです!私も嫁いだときに
   ここは歴史ある立派な家だなぁと思った記憶があります。
   それって大事ですよね!
住職:そういう価値観の家同士もあるってこと。
   檀家にだから説けるお話よ。
檀家:ちょっと弱気になっていました。ありがとうございました。

電話を切り、時計をみると約8分の会話時間。たった8分の会話……それでもお互いホッとした爽やかな気持ち。めでたし、めでたしです。この奥さんとは短時間でもわかり合えるし、別の答えを求めていることも手に取るようにわかる。だからこれだけの会話でも「安心」をお授けできる。これは檀家と菩提寺の信頼があるからこそ成せる技。永年培ってきたお互いの土壌が同じだからこその信頼があってこそ。

日本の仏教にはこのような繋がりがあって成り立っていることを忘れてはなりません。「うちはお寺と縁がなくて……」よくこう切り出す人がいますが、最初から縁がない家なんてない。いつの時代か誰から縁が途絶えたのか? まずそこを見直す必要があると思います。昨今の「お坊さんへの質問」は、この信頼なき状態から突然に訊ねてくる人が増えました。自分の土壌は未開拓のくせに本質を知ろうとする。挙げ句、あちこちにたくさんのお坊さんに答えを求めて取捨選択で1つの道を選ぼうとする。それは解釈ではなく、ただただ納得という解答を得たいだけ。これで「み教え」が身につくと思うとは大間違いだと認識すべきです。

(ご注意:日々、多くの相談や質問がきますが、お顔の見えない人(檀家外)には一切答えていません。あらかじめご了承くださいませ。)


2014年10月23日木曜日

0に越したことはない…世界に生きる

昨日は消防署が主催する講習会に講師として招かれました。今回は「予防広報」という部署の方々に「心をつかむ話し方」という題名でお話しさせて頂きました。予防広報とは、起こりうる災害に対しての予防……先にそれぞれが出来る対策を流布すること任務だそうです。

ふと考えると、消防も警察も医者も「何かあったら儲かる」という仕事ではありません。0(ないこと)を祈りながら、万が一に備えて下さる立場です。ですから、日々さまざま工夫で私たちに「万が一」の予防と対応を教えて下さっています。しかし私たちは、それをなかなか素直に受けとめず、我欲に溺れて生きています。

消防なら「火が出そうな場所を減らし、整理整頓をなさっていざという時に」と教えて下さいますし、医者なら「常日ごろ適度な運動をして体調管理をするように」と指導下さいます。でもやらない。やりたくない。これが私たちの弱いところです。

今回の講習で気づいたことは、いかに幼い時にこのようなことを叩き込んでおくことが重要かということ。行者の世界でいう「修行=習慣づけ」の世界。やっておかないと気持ち悪いと思わせる習慣づけ。素直なうちに常識をすり込んでいないといざという時に役に立たない。

先日、小学1年生の我が家のチビは、学校で行った避難訓練を真剣に話してくれました。目をキラキラ輝かせながら……。これが中学生の兄ちゃんになるとクールなんです。「やらされているから仕方ない」という意識が勝っているんです。その差です。ここに教育の意味が凝縮されているのです。

修行も、朝起きないといけない。掃除をしないといけない。拝まないといけない。私が15歳で入門したとき、教官は「遅いな」とおっしゃった。本来はもっと早く入門しなければいけない世界だと思い知らされました。先代は6歳はだった云います。それが今、ようやくわかってきました。防災も予防もすべてはそこに答えがあるのです。

前述の話題に戻ります。この講習で一番驚かれたのは「坊さんも予防を心掛けている」というテーマでお話しした時でした。その内容とは「坊さんは葬儀を待っているわけではない。住職在任期間中は1名も亡くならないように祈るのが仕事」いうものでした。坊さんは葬儀で儲けている……これが凡夫の解釈です。でも火事も、病気も、事件も、事故も喜ばない立場と同じ。0に越したことはない……世界に生きているのです。




それが証拠に「私のお寺のご本尊は薬師如来さま」です。健康を保ち、病気になれば平癒し、日々の平穏を願う仏さまに仕えているのです。そこで死を待つのはナンセンスまだまだその認識は薄くて苦労をしているわけです。そんなことを知って頂こうと、この日曜日に大祭を催します。ぜひご参加下さいませ。

2014年10月22日水曜日

黄金の田んぼを見て想うこと

この時期の田んぼを見ていると黄金色でたいへん美しく、刈り取ったあとの稲わらの匂いも心を和ませてくれます。一方、休田地は雑草が生い茂り、周囲の見通しも悪くしています。

空海さまは「春の種を下さずんば秋の実いかんが獲ん(春に種を蒔かずして、秋にどうして収穫を獲ることができようか)」とおっしゃっています。やった者にだけ実はみのるのです。それもデタラメな時期ではいけません。摂理に従った見識と精進によって実は成るのです。自分のことは置いておいて、他人様を先に「どうぞ」と譲る。誠に立派に聞こえますが得てして、苦手は相手から…お得は自分からという我欲もよく見受けられます。それではいけません。

そして気づかねばならないのは、休田地を本来の農耕地に戻すには何十年も掛かるということ。今日やって明日はお休み……といったムラのある精進では、なかなか実りある収穫を獲ることは難しいのです。「今日から始める」が苦手な人は「今日だけを続ける」という意欲を掲げてみてはいかがでしょうか。

2014年10月21日火曜日

本当とウソの境界線なんてない

正直を勘違いしている場面によく出くわします。ぶっちゃけ、ざっくばらん、ここだけの話……この語句で何もかも口にするからややこしい。黙っていればいいのです。でも黙っておけないから、知らない努力をすることも肝心なのです。

画家のミレーでしたか(ちょっと失念…また詳しく記述します)、売れない時期があって友人のほうが先に有名になってしまった。友人は彼の才能を高く評価していたのですが、なかなか芽が出ない。友人はどんどん都会で大成功を収めていく。ある日、友人が彼のアトリエを訪ねたら、真冬だというのに暖炉に火が着いていなかった。薪を買うお金がなかったのです。友人は「私の知人が君の作品を欲しがっている。セレクトは任せてもらったから、この作品を分けて欲しいんだ」といい、1枚の作品を大金で引き取ってくれました。そこから彼はドンドン頭角を現して有名になりました。後日、その友人の家を訪ねるとその絵が飾ってありました。お互いニッコリと微笑んで「よかったね」「ありがとう」と抱き合ったと云います。

どこからどこまで本当で、そしてどれがウソなのか。そんなことはわかりません。しかし親友同士の許容の中で心地よく生かし合っているからこそ、余分なセリフは必要としなかったのでしょう。

なぜそこで要らぬことを言う?
いまその本音が必要か?

失敗はすべてそこから生まれています。それは「正直」とはちょっと違い次元の悲しいセンスだと思います。知らせないのも思いやり……知ることが全てではないことに気づく。「融通」、これも悟りの1つでしょうね。

2014年10月18日土曜日

一会話一感動

昨日、馴染みの炉端焼きのお店に行きました。東京からのお客さんの接待です。ここは若い頃からお世話になっている老舗です。カウンターにつくなり、早めの賄いをとっていた奥さんに声をかけられました。

「あんた、この間テレビに出とったなぁ。深夜のヤツよ。何気なく坊さんがぎょうさん出とるわぁと思ってぼんやり観とったら、15歳の男の子が喪主をやったっていう話を聞いて涙が止まらんかったんよぅ。よう観たらアンタが喋りょうるが!たまにゃぁ、ここでもそんなエエ話せられぇ」と肩をパチン。(セリフのリアリティを保つため、倉敷弁で表記しています)

テレビ朝日の『お坊さんバラエティ・ぶっちゃけ寺』。初回から2週連続で出演しました。坊さんが芸人と絡むということは前代未聞だとメディアもずいぶん賑やかで、放送当初からネットを中心に大騒ぎ、お坊さん業界も喧々諤々、私の耳にも賛否両論が飛び込んできて正直疲れ果てました。

でも「きっかけ」としてはあのようなスタイルありでしょうし、そんな話題からお坊さんへの馴染みも生まれると思います。もちろん芸人の学習度、スタッフの謙虚さ、あくまでも「お坊さん」をオモチャとして扱わないというスタンスは堅持してもらわないと長続きはしないと思います。イメージを壊すことではなく、イメージを膨らませること。この奥さんのような感想は素直に喜ぶことでしょう。雑談でしんみりする…ハッとしたりホッとしたり、暴露ではなく披露という感覚を大切に「一会話一感動」を意識せよ、とは師匠の言葉です。

2014年10月13日月曜日

五十回忌に想うこと

親父の五十回忌ぐらいは家でと思うてなぁ……法事前、私の父と同世代の施主さんは目を細めてこうおっしゃった。近ごろでは自宅の法事がめっきり減ったので、なんだか懐かしい気持ちでお勤めができました。

五十回忌とは「亡くなってから49年目に行う法要」です。50歳の誕生日でさえ、なかなか祝ってもらえないのに、亡くなってから親族が集まって供養を行う。若い時からその度に不思議な気持ちになったものです。

私が高野山に上がると決心した15歳の夏、明治生まれの祖父(師匠)は毎朝勤行のときに「お前が今死んだら何人が悲しんでかけつけてくれるか?」を問うてきました。必至に数えてちょいと多めに答えると「なんじゃそんだけか?生き方に問題あるのう」と突き放されたものです。

「ええか、死んだらよほど優秀な幽霊にでもならん限り、お前のことなんぞ誰も思い出してくれんぞ。そのためには今を、生きるを、ちゃんと意識するんじゃ。坊主はなぁ、五十回忌を勤める立場。その場にいる人はみんな菩薩じゃよ」毎朝の質問のオチはこんな言葉でした。今でもよく思い出す言葉です。

2014年10月12日日曜日

こども寺子屋〜理由があるから続いている

当山の『こども寺子屋・サタデースクール』は相も変わらずマイペースで隔週土曜日に開校しています。朝7〜8時のたった1時間。特別なことはなく、お勤め、作務(そうじ)、法話のひたすら繰り返しです。周囲には「まだやっていたの?」と驚かれることもしばしばです。関係ない者にとってはその程度でしょう。それでも20年続いています。

昨日も開かれました。季節は秋から冬に変わろうとしています。境内には落ち葉が目立ち始めました。開校前、箒でそれを拾い集めていると続々と子供たちがやってきました。それぞれ箒をもち手伝ってくれました。そして7時を迎え、手を洗い、お勤めをしました。

この日は後に法事を控えていました。だから少し短縮で進めました。子供の1人が「なにがあるん?」と訊くので、「今日は大勢の人が来る法事じゃ」と答えました。「そういえば、サタデー(子供たちは寺子屋のことをこう呼ぶ)にきていた兄ちゃんも来るんよ」と付け加えますと、「ほんなら箒でキレイにしとこう」と言ってくれて、みんな一列になって境内にキレイな「箒目・ほうきめ」をつけてくれました。箒目とは、境内の土に波のような模様を残すことです。とてもキレイです。いつもは境内で遊んで帰る子供たちも墨のほうを歩き、駐車場でボール遊びをして帰っていきました。

よく「寺子屋の必要性」みたいな難しいインタビューを受けますが、そんな大それたことはわかりません。ただ続けていると、繋がりが生まれて、流れが出来て、自然となっていくのだなぁと感心させられる場面に出会うことが出来ます。それだけです。「まだやっていたの?」と問われれば「はい、まだやっています」と答えるだけです。続けることに理由がつくのではなく、理由があるから続いているのです。

2014年9月29日月曜日

「ほうれんそう」なんて要らない

いろいろやります。よく「檀家じゃなくても大丈夫ですか?」と訊かれます。檀家行事は別に勤めています。どなたでもご参加になれます。おいでください。
◎小林啓子ライヴin萌
  ・日 時 10月3日(金)20時〜
  ・場 所 笠岡カフェド萌 (岡山県)
  ・ゲスト 天野こうゆう
◎うたかたりinやかげ
  ・日 時 10月4日(土)13時半〜
  ・場 所 やかげ文化センター(岡山県)
◎天野こうゆう法話会〜智慧の風
  ・日 時 10月5日(日)14時〜
  ・場 所 早島茶房いかしの舎 (岡山県)
◎抜苦与楽番外編・夜のうたかたり
  ・日 時 10月5日(日)19時半〜
  ・場 所 倉敷KappaRecords (岡山県)
◎高蔵寺秋の大祭・施薬祭
  ・日 時 10月26日(日)14時〜
  ・場 所 医王山高蔵寺 (岡山県)
◎うたかたりin瑞雲寺
  ・日 時 11月3日(祝)16時半〜
  ・場 所 瑞雲寺(愛知県)
小林啓子ライヴin鎌倉  ・日 時 11月15日(日)16時〜
  ・場 所 鎌倉歐林洞ギャラリーサロン (神奈川県) 
また、今日から新しい番組が始まります。その名も『ぶっちゃけ寺』。岡山は週遅れですが、ぜひご覧ください。

さて最近は、企業研修なる会への講演も増えつつあります。お寺での法話会はめっきり少なくなりました。残念なことです。そのぶん企業は熱心でどんどんテーマを与えくれます。しかし密教の立場から説きますと、これが真逆になることもしばしばです。

たとえば、企業でよく使う「ほう(報告)・れん(連絡)・そう(相談)」。これを使って法話を考えるとなぜか行き詰まるんです。それでこのことを頭において法要のお手伝いをしてみました。私の役は「奉行・ぶぎょう」といい、全体を見渡して式を執行しながら、さまざまな部署へ指示を出すという仕事。年齢的には中堅が受け持つ役回りです。

しっかりと準備をして、綿密に打ち合わせて、適材適所に配役をしていきます。法要は一度始まってしまうと無言となります。気づくと「ほうれんそう」のどれも出来ない(笑)誰も報告してくれませんし、連絡もなし、相談なんて始まってからでは遅いのです。要は全員が語らずしても動けるところまで修練しているから、荘厳な古式法要が無事に営めるのです。

常識って真逆から見ると、意外と必要のない、型にはまった障害物なのかも知れません。メジャーな通説は崇拝され、何も疑問を持たず盲信しちゃうと逆に危険なのではないか?会社でそれを取り除いたら運営が止まるのか?それで止まるくらいの社員なら、まだまだ実践では使えないという見方もアリでしょう。

2014年9月17日水曜日

檀家塾で学ぶ、総括!日本の葬送儀礼

先週の日曜日、『檀家塾』なる新しい企画を開催しました。これまで様々な企画をやってきましたが、意外にも檀家限定(檀家とそれを希望する家)のみというのは初めての試みでした。お盆から声がけをして当初2名しか申込みがないという滑り出しで焦りましたが、蓋を開けてみれば大盛況でした。

塾の内容はテーマに沿って展開します。今回は「葬儀」。いきなり暗くなる内容ですが、ここで本儀を知って頂くことによって、生きること、そして檀家としての在り方に気づいてもらいたいという願いを込めました。葬儀の歴史、宗派ごとの違い、昨今の変化、戒名の意味、日本仏教の誤解など、寺院の変遷と共に講義をしました。

一度では理解できないかも……というお声もありましたが、それはそれで良いと開き直って進行しました。み教えとは、どこかに一つ、なにかが引っかかればそこからグイッと芽を出すものだと思います。そういった意味から「檀家塾」は、作物に喩えるなら開墾と種まきの繰り返し。そんなことを改めて実感しました。

塾の総括として「日本人にとって葬儀とは?」を語りたかった。新しいとされるさまざまな供養(※あえて供養と記しますが、本儀に則っていないため、本来なら処理法と表現したほうが正しい)、散骨や家族葬、僧侶を必要としない直葬など、死にまつわる儀礼は混沌としています。檀家の中には、これまでの葬儀が無意味だったのか?と疑問に頭を抱える人もいますし、遺言によって束縛されて、異端な供養方法を推し進めなければならなくなったケースもあります。しかし、あえて日本独自の葬送儀礼が脈々と今日まで伝わってきたのか。ここを明確にせず、理想ばかりをボンヤリ説いてきたからこそ、日本仏教を葬式仏教などと揶揄され続けているのでしょう。

今回は開校前からあらゆる書籍や言葉を探しましたが、コレ!と言ったものが見つからずずいぶん悩みました。もうここまで出ているのに……この作業は本当に難産でした。そして前夜、たまたま別件で開いた本の中に言わんとしている内容が明確に記述されていて光明が差しました。我が高野山の後輩・蝉丸P師の著作『蝉丸Pのつれづれ仏教講座』(p.174)からの引用です。参考までに記しておきます。

葬送儀礼なんてものは、とっくの昔に廃れている風習であるにもかかわらず、今に至るまで続いてきたのには、「意味」と「実利」があったればこその話です。(中略)「死者への感謝と哀悼を捧げつつ、キッチリと決別するという側面と、ちゃんとした儀礼に則って見送るということによって、心的負担の軽減を図り、安心感を担保してくれる上に、聴聞や挨拶など社会的な義理を一本化してくれるモノ」です。

2014年9月11日木曜日

バチの正体について考えてみる

このところ「バチ」について考えさせられることが多く、早くまとめておこうと思いながらなかなかうまくいきません。覚書という括りで気楽に記しておきます。

よくバチを太鼓に喩えて「叩かぬ者には当たらぬ」と云います。これは日頃、信仰のない人にはバチさえも当たらない。力一杯、太鼓を叩く(これを信仰と比喩)とその跳ね返りが身体に当たって痛い目にあう。このようすをバチ当たりだという説があります。そこから「信仰によって調子に乗ってはならぬ」と戒めたのでしょう。

また神仏のどちらがバチを当てるのか? と問う人もいます。これは神(天部)に限定するという説があります。如来・菩薩・明王、いわゆる仏界はその感情を離れた世界であり、神のいる天界は感情の残っている世界。そのことから、バチは神が当てるという説もあります。ここで間違ってはいけないのは、どちらが偉いというものではなく、両者があって初めて人は素直に従う(信じる)のだということ。これは入学当初、ビシバシ厳しい先生にしごかれてこそ、温厚な教師の教えに入ることが出来る……そんなイメージでよいかと思います。

さて最近想うところ、それ以外でも「バチは存在するのではないか?」ということです。バチの発端はよくわからなくても「ひょっとしてバチかも?」と思い込んだり、「バチが当たったんじゃ!」と他人に指摘されると妙に気にしてしまう。一瞬にして倍速走馬燈のスイッチが入り、あれこれ過去を詮索してその原因を大きくしてバチを省みる。一度それに陥ると次々とおこるバチ(らしき出来事)に振り回されてしまう。お寺に相談なされる人はこの類いが誠に多いような気がします。

そこで慌てて「信仰」を持とうとする。太鼓に喩えるなら、事がおきてからバチを握り叩き始めるようなもの。せっかくの善行を自らの悪行消しゴムとして懸命に懺悔する。要は「心当たり」こそがバチの正体。これを如何に作らず日々を過ごすか。自分だけでなく「アイツなら仕方ないよ」などと、周囲に言わせない三密行(行い、ことば、心持ちを高い次元で清く1つに保つ)を意識する。私にとっての「バチ」ってなんぞや?少し考えてみると生活に変化が出てくると思います。ご参考までに。

2014年9月9日火曜日

本気で強くなれ!

先日、取材で目の前で少林寺拳法の実演を拝見しました。凛とした道場に無駄のない道着、張り詰めた攻防に興奮とは違う上品な熱きものを感じました。

少林寺拳法はお互いを高め合うための武道であり、勝敗にこだわるものではない。信頼と高い技術と精神を切磋琢磨(ぶつけ合うという表現のほうが正しいかも)ための修行だと改めて知ることができました。本当に素晴らしいです。その模様は今日の『もんぜんまっぷ』(エブリのまち15:30〜)でオンエアされる予定です。

ナマクラな者同士がいくら競い合っても、根本が緩ければジャレ合いにすぎません。日替わり定職のごとく信念を変え、目先に食いつき、浮き草のように流行りに流されていると一瞬に人生は終わります。

真言宗では空海さまを「遍照金剛:へんじょうこんごう」とお呼びします。これは空海さまの灌頂名(師から授かった法名)です。一般的に意味は「堅固な意志で遍く照らす立場となれ」と説きますが、実は最高に固い金剛石(ダイアモンド)を輝かせるには、自分と同等、もしくはそれ以上の固いモノを本気でぶつかり合い、命がけで磨きをかけることを指すのです。世間では「本気」を履き違えた個人差をひけらかして論じ合いますが、そんな次元では道ばたの石ころさえも弱音の元凶となってしまう。本気で強くなることを意識したいものですね。

2014年9月7日日曜日

拝んでいるなら出来るでしょう

本日は高蔵寺本尊縁日『お薬師さん』です。お護摩と法話を勤めます。いつもは10時ですが、今日のみ11時からの開始となります。お間違えないようにお願いいたします。

昨日に続きを少々。土を捻って「仏さま」を作り上げる場合、その人がこれまでどれだけ拝んできたかということが「あからさま」になります。一言にお地蔵さんと言ってもさまざまなお姿があるわけです。語るだけなら想像を巡らせてしのげば良いのですが、形にするとなるとそうはいかない。如何に拝してきたか。拝するとはしっかり見つめて観想してきたかということの現れなのです。

毎日拝んでいます! と声高らかに言ったとしても、そのお姿が描けなかったり、作り出せないのなら、何を拝んでいるのですか? と問われても仕方ないのです。以前、少し生意気な後輩坊さんたちに仏画を指導する機会がありました。そのときのテーマは「自分のご本尊を描く」でした。開始早々、挙手の嵐。その質問はすべて「どんなお姿でしたっけ?」で苦笑いした思い出があります。

密教には観察という言葉がよく登場します。「妙観察智・みょうかんざっち」という言葉もあります。これは絶対的客観視から得る智慧のこと。わかりやすく説けば、私感を入れずに微細にわたるまで観て、自心に焼き付けて自在に活用することです。先に形だけを受け入れても無駄のように言う人もいますが、形を最大限とりこんで自身のモノとしてしまえば、そのアレンジは自在となって、そこから滲み出る心まで読み取ることが出来る。

密教の「拝む」とはそこまでの境地を指します。1つのことに突き詰めて凝ることを「オタク」だなんて揶揄する風潮がありますが、極限を超えた観察眼をもてば菩薩に成れる。平均と流行りに追われ、上辺を学ぶことしかしないほうが立派に映る流れこそ、凡夫のあふれる世間だと思います。

2014年9月6日土曜日

導くにはやって魅せるしかない

9月中旬から秋の行事が目白押しです。

◎くらしき仏教カフェ
  ・日 時 9月21日(日)15時〜
  ・場 所 夢空間はしまや (岡山県)
◎抜苦与楽〜夜の法話会
  ・日 時 9月21日(日)19時半〜
  ・場 所 倉敷KappaRecords (岡山県)
◎高野山塾
  ・日 時 9月23日(祝)14時〜
  ・場 所 ニューロカフェ吉祥寺(東京)
◎小林啓子ライヴin萌
  ・日 時 10月3日(金)20時〜
  ・場 所 笠岡カフェド萌 (岡山県)
  ・ゲスト 天野こうゆう
◎うたかたりinやかげ
  ・日 時 10月4日(土)13時半〜
  ・場 所 やかげ文化センター(岡山県)
◎天野こうゆう法話会〜智慧の風
  ・日 時 10月5日(日)14時〜
  ・場 所 早島茶房いかしの舎 (岡山県)
◎抜苦与楽番外編・夜のうたかたり
  ・日 時 10月5日(日)19時半〜
  ・場 所 倉敷KappaRecords (岡山県)
◎高蔵寺秋の大祭・施薬祭
  ・日 時 10月26日(日)14時〜
  ・場 所 医王山高蔵寺 (岡山県)
◎うたかたりin瑞雲寺
  ・日 時 11月3日(祝)16時半〜
  ・場 所 瑞雲寺(愛知県)
小林啓子ライヴin鎌倉  ・日 時 11月15日(日)16時〜
  ・場 所 鎌倉歐林洞ギャラリーサロン (神奈川県) 

詳細は追ってお知らせしますが、怒濤のスケジュールとなりました。同じような繰り返しに見えますが、すべて演出が異なりますので、常連さんも初めてのお客さんの楽しめるかと存じます。どうぞご期待ください。

さて、盆明けから、製作や講演、葬儀にと息つく間もなく、多忙な毎日を送っています。水行の水温で秋を感じるこの頃です。

最近では、私の作る仏さま(陶芸)教室が人気で出張講座に出かけます。子供からお年寄りまで、土を触ると童心に還るようでたいへん人気があります。だいたい約2時間の講義で、最初の30分は法話と説明を行います。教壇から見渡すと熱心に聴く人と「早くやらせろ!」と言わんばかりの人に分かれます。別にじらしているわけではないのですが、性格が如実に現れ、その顛末も見えてきます。急ぐ人は質問と愚痴が多い。まず人の話を聞かない。そして材料や道具、場所のせいにし始めます。挙げ句「やりたくなかった」とぼやきます。土をひねってくれれば良いのですが、理屈をひと捻りして手が動かない者ばかり。

先日もある講義がありました。席に着くなり、主催者の意に反して言いたい放題です。まだ開始前の話です。「子供だましか」「幼稚園のころを思い出す」「手が汚れる」「神通力で作ってみせる」と口々に愚言を吐き、指示も待たず材料を触り出しました。そんな状況では、もちろん説明も法話も聞いてもらえません。だからといって怒鳴りあげることも出来ない。さてどうするか。

そんな時は、完成品を見せてから存分に好きに作ってもらう。あーでもない、こーでもないとやり始めます。子供でも出来ると豪語していた大人たちは懸命に土にたわむれます。私はしばし傍観者です。ある程度進むと、一斉に手が止まり「出来ない…」と助けを求めてきます。そこで一度、手を止めてもらい、その目の前で一気に作って魅せます。すると「おぉ〜〜」とため息が漏れ、その後は一切、四の五の言わなくなります。

山本五十六さんではありませんが、教えるという場面においては「やってみせる」しかないのです。「いつもはやれるけど、ここでは魅せることが出来ない」なら講師にはなれません。どんな状況でも完成させる。そして簡単な物こそ完成は難しいことを目で味わって頂く。すると自ら学び始めるのです。講師を務めると、見る目以上に聞く耳は大事だと気づかされます。


























2014年8月24日日曜日

祖父母の姿と半返し縫い

昨日は「こども寺子屋」でしたが、我が子をいれて2名のみ。夏休みは子供たちも大忙しのようです。こんな日もあるんです(笑)そして今夜は「夜のこども寺子屋」を開校します。(こちらは予約制なので人数が事前にわかっているので安心w)ここでは初の試み、妖怪を題材としたワークショップや肝試しを行い、「物にも魂が宿っているよ」ということを説いてみようと思っています。

お寺のほうは盆明けから法事が続いています。三十三回忌もあれば四十九日忌もありまして、参拝者の心境や法話も年忌によってさまざま。住職としては緊張と緩和を重視しながら、先祖供養と自身の活かし方を端的に説いています。

昨日2つめの家、四十九日忌でのお話。看護師をしている娘さんが法要後に話しかけてきました。「私は長く看護師をしていますが、いつも配属は末期を看取る現場なんです。周りは不規則だし、気が滅入るだろうから辞めたらと言ってくれるのですが、どうもこの仕事は自分に合っている気がしてならないんです。あの世とこの世、ほんの一瞬で移動しちゃう。本当に不思議な感覚になりますし、旅立ったお姿は尊いとも感じます。不思議といえば、亡くなっていく大半の方が両親ではなく、祖父母が迎えに来たとお話ししてくれるんです。それが不思議でなりません。なぜでしょうか?」たいへん恐縮しながら噛みしめるように訊ねてくれました。

両親ではなく祖父母……この真意は正直つかめませんが、私にもそのようなお話を伺う機会が過去にありました。想像ですが、幼少時期に可愛がってもらった、その時にお経や仏壇、信仰について優しく説いてくれた……そんな思い出が末期に蘇るのかも知れません。拝む現場では、親が子に教えるより、一代上の祖父母が教えている場面のほうが確実に多いような気がします。その辺りに答えがあるのかもしれません。

この話題でふと思い出したことがあります。私は幼少の頃、洋裁を職にしていた母の影響で裁縫が趣味でした。刺繍や雑貨作りをよく習っていました。そこで教わった「半返し縫い」が忘れられません。針と糸で縫い進めるだけのこと、縫い合わせが出来ればどんな縫い方でも問題がないのに、わざわざ1つ前の縫い目に半分だけ戻り縫っていく。波縫いもあれば本返し縫いもあるのに、なぜか半返し縫いを習わなければならない。この作業が幼心に面倒でなりませんでした。とにかく早く完成させたい!前は前へ進みたい!そんな心境とは真逆の作業でした。

理由はボンヤリですが「強固に縫えて、仕上げがきれい。それでいて本返しより緩く縫えるから伸縮に強い」こんな理由を聞いたような気がします。魂も一個人だけを見ると「点」でしかありません。それが先祖代々繋がっていることは誰でも認識しています。けれど、それがどれだけの絆で縫い合わされているかはさまざまなのかも知れません。旅立つ前、祖父母に導かれたような気持ちになるのは、ひょっとしたらこの「半返し縫い」のように、先に進むことばかり考えず、ちょっと昔に戻って繋がりを強固にして、次へ繋げ。そんな想いから祖父母が現れるのかもしれません。

2014年8月23日土曜日

ロケで極楽を味わう

昨日は雨天の中、香川県多度津・道隆寺(どうりゅうじ)さんの門前でロケでした。パートナーはNMB48の植田碧麗ちゃん。15歳のお人形のような女の子です。お寺にゆかりの法話から門前をブラリしながらキーワードを頼りに特産や名物を探す内容です。その内容はある意味、モヤモヤさまぁ〜ずよりモヤモヤしているかも知れません(笑)ローカル番組といえど、その中でも一番の「どローカル」だと自負があります。それだけに出会う人々もイイ味を出してくれています。

ロケは本当にたいへんです。少なくても10名近いクルーで動き、無駄なく、迷惑なく、かつ安全に撮影を進めねばなりません。これに天候(光線の具合)やロケ場所の都合、野次馬の整理などもついてきます。演者が女性だとメイクや髪型、衣装にも細心の注意を払わねばなりません。

1人でもボーッとやっているとウィンドウに映り込んだり、ロケ先(お店など)のご機嫌を損ねたり、また私たちの表現方法ひとつでその魅力が下落する場合もあります。1日中撮影して使われるのは80〜90分程度、編集によって面白さや為になる度合いは変動します。

これを何度も繰り返していると、ロケ感が冴えてきて、お互いの気配りがドンドン増してきます。極限まで緊張と配慮を研ぎ澄ますと、ピリピリとした険しい状況を打破し、柔和で包括的な空気になってくるのです。そこでの会話はとめどなく弾み、互いに優劣はなく高め合っているという感覚になってきます。わかりやすく喩えると「歯車が合う」の精密機器版といったところでしょうか。

これこそ、空海さまのおっしゃる『三密』。行い(すること)、ことば(言うこと)、心(想うこと)が高い次元で1つに成るといく瞬間でしょうか。極限まで楽しむために厳しく現場に向かい誠意を尽くす。これこそ極楽……どの職場においてもこのような張り詰めた中のリラックスで行えたら、もっと上空からモノゴトがとらえることができるでしょう。ロケはたいへん、でもそこで極楽を味わっています。おかげさまで他の番組を見る感覚も変わってきました。

2014年8月21日木曜日

わからずやには、こんな説話を

お盆が開けてヘトヘトの中、お寺はにわかに秋以降の法事やらの予約で忙しくなります。時にはお寺に対する要望や住職への不満もあります。すべてに耳を傾け、誤解は解き、改善が必要な場合は努力を約束します。中には酔ってトンチンカンな電話でエンドレスで延々グチを聞かされたり、嫌みを罵られたりして、長時間「はい、はい、はい」とコールセンターみたいになります。

よく「この際だから言わせてもらうぞ!」というセリフも耳にします。心の中で(どの際やねん?)と叫びながら延々と伺います。罵詈雑言が出始めるとさすがに不快になるので「では、すぐにお邪魔しお詫びします……」と電話を切ろうとしまと、「待て待て、それほどのことじゃない」と慌てて冷静さを取り戻してくれたり……。正直、相手寂しいだけなのですが、多忙なのでかんべんして欲しいものです。

こんなやりとりは他の寺社、会社や店舗でもあることでしょうが、もう30年もこんなことを繰り返していると、そんな「わからずや」には、お釈迦さまの説話を淡々とお話しして締めくくります。

お釈迦さまはね、毎日、ご自分に罵詈雑言をはき出す男に対して、一切取り合わなかったんですよ。来る日も来る日も無視し続けられた。そしてね、その男に「毎日、美味しいナマモノを届けたが、そのうちは留守だった。そんな時はどうするか?」と問われたのね。すると男は「勿体ないから持ち帰っていただく」と答えた。「ならば、お前の罵詈雑言は私の手元にはない。私の心は留守だったのだ」とほほえみ、「勿体ないから持ち帰ったのだね。私は罵詈雑言は受け取っていない、天に向かって唾するような言動は控えるべし」と諭されたんですよ。

その後、この悪業がどう転ぶかは知るよしもありませんが、勢いで暴言を吐くのはほどほどにしておいたほうが良いと思います。どちらも疲れるしね。

2014年8月20日水曜日

日本人のフォーマット

今朝(2014/08/20)のもんぜんほうわ

『日本人のフォーマット』

知人とネットでやりとりをしていて、少し面白い話題にぶつかりました。知人はちょっと素敵な言葉に出会い、その原点がお釈迦さまであることを知った。どの辺りからの引用か? と問うのです。膨大な言葉から似ているモノ探すことさえ難しい……これは難題です。

この間の日曜日は法話イベントのダブルヘッダーでした。盆明けということもあり、2会場とも「お盆とはなんぞや?」という質問に終始しました。お盆はいろんな文化と考えが混在していて、現代人にとっては「わかったようでわからない」存在のようです。でもちょっと整理すれば見えてくるモノもあるわけで、なるべく整理してお話をするように心掛けました。

そこで挙げるのがデータです。お釈迦さまの例話だけだと「しょせん伝承」という斜のかまえはなかなか修正出来ません。臨床とデータ、あとは経験談が頼りです。ノーベル賞受賞者が、数学者が、大企業の社長が、大手自動車会社が……このようなアプローチで導くとグイグイ手応えが出てきます。仏教が理想から現実に変わる瞬間とでも申しましょうか(大袈裟かなw)そうか!と合点のいった表情となり「なら、信じます!」という風向きに変わるのです。

要は成功者が実践で引用した仏教の智慧を知ると、凡夫はなびくという仕組みです。こちらとしては「ずっと前から言い続けてきたこと」なのですが、具体的な成功例の魅力は計りきれません。前述の知人も「その言葉は教育者が発した言葉」として興味を持ったそうですが、その人は住職という一面もあった。そこから「坊さんすごい!」となり問うてきてくれたようです。

教育者と僧侶(住職)のどちらの割合が上でそんな名言に辿り着いたのかは知るよしもありません。でもひとついえることは、明らかに信仰の地盤があったからこその発言だと思います。パソコンの世界ではよく「フォーマット」という言葉を使いますが、「信仰の地盤=フォーマット」、これが存在します。生まれながらに備わった心。先祖から受け継いで厚いモノ。それが日本人のフォーマットです。近年の混迷は、そのフォーマットが明らかに破損欠損していること原因……その初期化にたいへん苦労しているのが現代なのだと思います。

2014年8月17日日曜日

盆じゃからさばられたんじゃ

今朝の片付けで仏送りの行事がようやく落ち着きました。ニュースを見ていると今年もこの時期の海や川、山での事故がおおく報道されています。参拝のお年寄りは「このボニヅキ(盆月)に行くかのう」とため息をつきます。

私自身、最近まで「お盆のレジャーは控えましょう」と言う立場をとっていました。お盆には地獄の釜の蓋が開く……供養を受けられなかった亡者は人々を地獄に道連れにする。子供の頃、大人たちにそう聞かされてきました。お坊さんになってから施餓鬼を修するようになり、その気持ちは益々大きくなってきました。海や川、山の流水で供養をします。供養に関わり出すと、さすがにそこで遊ぶ気持ちにはなれません。

でも近ごろは申しません。「さまざまな立場があるじゃないか!」「この時期しか遊べないんだ!」「商売の邪魔をする気か!」目をつり上げて怒る人に疲れたのです。好きにすればよろしい。人は人、さまざまな立場はあるのです。だからもう申しません。でも……正直……気持ちは良くない……これが本音です。

よく外国を引き合いに出す人がいますが、私たち日本人が外国の風習や供養に立ちあったら、やはりそこの作法に従います。盆は休暇ではない。あくまでも先祖を省みるためのもの……だから帰省と呼ぶのです。

倉敷弁に「さばる」という言葉があります。「さばる」とは、頼りにしてしがみつくという意味です。昔、倉敷の年寄りは盆時期に水場で遊ぶ子供に対して「餓鬼がさばるぞ、死人がさばるぞ、さばられたら引っ張っていかれるぞ」と脅したと云います。私もそれを聞いてゾッとした記憶があります。

真意は別にして「してはならない」ということ避けてきたの日本人です。山を修行の場とせず、登頂を「征服」といい、海を浄める場とせず、「挑む」と言い出した戦後。欧米化だと片付けようとしますが、欧米人のほうが祖霊には謙虚に映ります。参拝のお年寄りは言います。「こねぇな時期に海山に行くけん、さばられたんじゃわ……」旧街には今もそんなセリフが生きています。

2014年8月16日土曜日

餓鬼は本当にいるのでしょうか?

昨夜の『仏送り・万燈会』をもちまして当山の盆行事がすべて終わりました。毎年のことながら暑さと過労でもうろうとしながらのゴールです。年齢を重ねるごとに密度に変化が出てきたような気がしますが。かといって若かりし頃が粗末だったということではなく、今思うとあの頃の勢いにも力はあったのだと思います。

高野山での修行時代、教官先生(指導僧)が「すべての人が施餓鬼を意識し、全ての坊さんが本気で修したら世の中は極楽になる。現世が混沌としているのはその功徳がまだ不十分であり、君たちは力をそこに注がなければならない」とおっしゃったことを今でも覚えています。

餓鬼を供養する……実際に鬼がいる。飢えた亡者がいる。そんなことはナンセンスだ。そう囁く人もいらっしゃいます。私個人の意見は「いる」と思っています。詳しくは明日の『くらしき仏教カフェ』と『抜苦与楽・夜の法話会』でお話ししますが、妖怪でも幽霊でも想像の産物という見方があるのならば、記憶の産物という見方もあっていいと思うのです。だから描ける。だから語れる。だから居るのだ。こんな意見もありでしょう。

施餓鬼は盆に集中して行われますが、それは猛暑に施しの心を養うことのキャンペーンであって、真言宗では毎夜修する日行です。食卓にはそれ専用の器が常備され、食事の前にそこへ穀物を入れる。それは残り物ではなく、最初に一番美味しい部分を施す。それを日没(1日の終わり)に屋外の決まった場所(方角も決まっている)に備えて、その場に跪いて拝みます。供養の後は決して振り返らず、臆病な餓鬼が夜な夜なそれを食し、供養を受けて、成仏していくのだと云います。

長年、修しているとやっぱり不思議なことはたくさんあります。真っ暗闇の境内に狼の大群のような気配がして私の周囲を周りながら「グルルルゥ」と喉を鳴らしたり、闇の中にある岩がグニュッと変形しておぞましい顔になったり、背後から跳び上がるくらいの足音がドスンドスンと響き、翌朝には施餓鬼場所に置いていた皿が粉々になっていたり……夢か錯覚か区別しにくい不思議が山のようにあるのです。いずれも「畏れることなかれ」が基本ですが、やっぱりドキドキはします。

さて餓鬼は本当に鬼なのか。はたまた亡者なのか。1000年以上、行者によって供養されつづけてきたのにまだ減らないのか。それだけ浮かばれない魂が本当にいるのだろうか。そんな疑問は常に付きまとうわけですが、毎日繰り返しているとそこには生死の境はなく、生きている私たちが悪業がそれを生んでいるのではないか。

心ない言葉、冷たい態度、贔屓する偏愛、蹴落としてまで手に入れたい物欲……犯罪になるような悪ではなく、日々の摩擦によって起きる無意識に近い悪。これを善転させることが施餓鬼行のような気がします。だから今宵も施餓鬼を修する。このエンドレスを止めることが僧侶の本来の目的なのではないか……毎年、少しだけ秋らしくなった盆明けにそう感じてしまいます。

2014年8月15日金曜日

医者に逃げるな

お参りする家の事情はさまざま。大家族もあれば、一人暮らしもあります。いつも寺子屋のためにジャガイモやタマネギを作ってくれているおじさんは母を見とった後、一人暮らしになりました。どこへ行くのも自転車で、よく近所で見かけていました。しかし最近めっきり会わなくなりました。

久しぶりにお邪魔すると「おぅ、おじゅっさんか」と歓迎してくれました。「最近どーしょん?(どうしてますか)」と切り出すと、「それが1年半ばかり、足が腫れてどもう調子が悪いんじゃ」と片足を引きずりながら麦茶を出してくれました。

おじさんは博学でインテリな人。自分で分析して自己治癒に専念していると説明してくれました。お勤めを終えて、やっぱり気になるので「やっぱ、病院に行ったほうがええで」と不機嫌になるのを覚悟して言いました。予想どおりの反応でしたが、私もお世話になった名医だからと付け加えると「おじゅっさんを診た先生ならエエかもな」と少しは前向きに考えると約束をしました。

その後、なぜ医者嫌いなのか問いました。「若い頃、横柄な医者とケンカしてなぁ、上からモノを言う医者が大嫌いになった。医者にかかるとすべて病気にされてしまうし」と答えてくれました。嫌いはともかく、医者にかかるとすべて病気……この言葉にはハッとしました。

高野山にいた頃、ちょっとした風邪で病院に行こうとしたら先輩に「医者グセがついたらなんでもかんでも病のせいにして逃げるようになるぞ」と釘を刺されたことがあります。元来「病」でじゅうぶんに意味は通じるのに、日本では「病気」と表します。病は気から……という諺もありますが、どちらに気を向けるかで全く正反対に転じます。医者に言われたことを鵜呑みにして不健康を装うのも、やせ我慢をして気合いで乗り越えて健康を演じるのもその人次第。ただ、なんでもかんでも病にして逃げてはいけない。すべては気持ちから始まる……このおじさんにはぜひ病院に行って欲しいと願いますが、ふとそんな先輩の言葉を思い出しました。

2014年8月13日水曜日

皮算用で生きてる一流なんていない

この夏、よく耳にする周囲の話題。「弟子が逃げた」「バイトが消えた」「見習いと連絡がつかない」こんな内容が多い。小僧にもいるそうです。なんとも情けない話です。手塩にかけた後継者がなんの連絡もなしに蒸発する。理由はわからないけど、育てている側としてはたまったもんじゃない。

私は16歳から盆行を手伝っています。実家がお寺だから……そういってしまえば当然のことですが、先代(明治生まれの祖父)は厳しかったと思います。優しい口調で手厳しい。すぐにゲンコツは飛ぶような派手さはないけど、とにかく辛さを科せる人でした。

最初は30軒程度のお参りを共に歩きます。1メートルくらい離れて一挙手一投足を観察するように指導されます。家の上がり方から挨拶まで、線香の付け方まで見習います。その間の会話や身のこなしも見落とすことは許しません。でも怒らない。「見とったか?」それだけで次の家へ行きます。正直、読経が一番ホッとする時間帯でした。その後、タバコを吹かす祖父と檀家の会話に付き合います。これが辛い。とにかく足が千切れそうになるんです。その繰り返し。

そして次の日からは1日80件を1人でお参りしてこいと突然言い渡します。昨日の倍以上を1人で手描きの地図を頼りに歩きます。倒れるほど暑く、死ぬほど辛い日々が続きます。日が暮れて、帰山すると「こことここ、あと3件行ってこい」と笑顔で言います。鬼です。人間、一度スイッチを切ったらその稼働は鈍るもの……過労と悔しさでやるせなくなります。でも行かなきゃ終わらない。こうやって徐々に引き継いで今があります。

最初はバイト代で釣られたのかもしれません。記憶は定かじゃない。でもそんなことより期日までにトラブル(檀家の苦情や相談)なしに淡々と盆行出来ることに徹するようになります。もちろん「この小僧が!」と罵られることも多々ありましたし、うっかり数軒を飛ばすこともしばしばでした。

そうしているうちに祖父が「趣味と仕事の違いはな、投げ出すか投げ出さないかの部分だけじゃ。天職とはやめられない仕事を言うんじゃ」とポツリ。「四の五の言わずに職に合わせてやること。お前に向いてる仕事なんぞ、世の中にゃありゃせん。人間、選んだら終わりじゃ。仕事にお前が合わせることが使命なんぞ……」

私の先輩の言葉に「職にバカなし、人にバカあり」という強烈な言葉がありますが、逃げた、消えた、音信不通はその第一歩が間違っているのだと思います。好きな仕事で喰えることなんてこの世に存在しない。心身限界のリミッターを振り切ったところで活躍をし続ければ、それが天職となる。皮算用で生きてる一流なんていないのです。そこを叩き込まないと放浪者のような若者がますます増えることでしょう。

2014年8月7日木曜日

本尊さまがいがん(ゆがん)でる!?

私が出演しているOHK『エブリのまち・もんぜんまっぷ』でお盆準備編がオンエアされました。ぜひご覧ください。

盆行で毎日、毎日、各家をお参りしていると膝が痛くなってきます。長時間の正座の影響でしょうが、それ以外に原因があるんです。

どの家も「今日はおじゅっさんが来られるから…」と特別なお気持ちで待ってくれています。滞在は数分なのにもかかわらず、お掃除も茶菓子も心がこもっています。中には話題さえも考えてくれていて、気持ちよく会話が弾みます。本当にありがたいことです。

なのに何故膝が痛いのか……そんな大袈裟な話じゃないのですが(笑)、残念ながらけっこうな確率で、中心に座されている本尊さまの向きが歪んでいるのです。光背が傾いたり、蓮座がずれていたり、お顔がヨソを向いていたり……。点香(火を灯すこと)して「さあ、拝むぞ!」という段階になって「ありゃりゃ」と気づくんです。そのまま膝立ちしてソッと手直しをする。立ち上がると家の人が「いがん(倉敷弁=ゆがむ)でいましたか」と恐縮なされるので膝立ち。この繰り返しが原因なんです。

冗談みたいなお話ですが、ぜひご自宅の本尊さまをチェックしてみてください。仏像は固定しませんから、畳を歩くだけで普段からけっこう揺れています。気持ちよく拝むには芯を通して左右対称に映る荘厳がベストです。他が完璧でも肝心の本尊さまは歪んでいるのは残念なこと。気をつけてみてくださいね。

2014年8月6日水曜日

昔ながら…を大切に

またお墓についての番組がありました。今度の講師は浄土宗のお坊さんでした。同番組で連続ですから力の入れようがうかがえます。同時に難しいテーマに踏み入れてしまったのかも知れません。視聴者からすれば、前回の講師と今回の講師のご意見は統一されているものなのか? はたまた一礼として上書きされる情報なのか? 悩ましいところです。ただ一つ言えることは、ゴールデンタイムのスペシャル番組で、これによってこの時期の現場(檀信徒の話題)には物議を醸し出すことは必至です。

今回は「墓地への夜のお参り」「墓地での記念撮影」「幽霊の存在」「供物を持ち帰って食す」などについて語られていました。いずれも私が真言宗の立場で説いていることとは大きく異なりました。講師以上に責任があるのは番組を作る側です。従来の間違った慣習をベースに浅はかなイメージを確立してはならない。テレビ的なんて方便はいりません。やっぱりそこには無理が出てくるのです。

日本仏教は近年、世間が作り上げたイメージで独走しています。そこに本来の意味は死滅しています。そこから真を説こうとしても、それは大勢に呑みこまれてしまいます。以前にも記しましたが、今から100年前は今のような情報伝達はありませんでした。地域の風習やしきたりは方言の如く守られてきました。それが今ではたった1回の放送(情報発信)で東西新旧の文化は逆転して統一されてしまいます。いくら地方で声を大にして訴えても、大きなメディアから発せられるとそれが正論となってしまう時代です。

そんなに力むことはないよ……と思われるかもしれません。でも外来種の増殖でその土地固有の動植物が絶滅するが如く、地域から「昔ながら…」が薄れ、本来の意味もどんどん消えているのです。もうかなり意識しなければ、多勢に流されてしまう時代に入っています。各菩提寺、各地域、各家の「昔ながら…」を正否ではなく、まずは補完してほしいと切に願います。私自身、メディアでの発信も行っていますから、その難しさはじゅうぶんに知っているつもりです。かなり慎重に時間をかけて作り上げないといけません。その点、今回は突貫工事的な作りを感じてしまいました。

この話題はもうこれにておしまい。多方面から見解を訊かれるので記しておきます。私は私に関わる方々にしっかり説いていこうと思います。

2014年8月5日火曜日

その人をとことん味わう

さわえ婆ちゃんの家には年に3回お参りします。春と秋の彼岸とお盆の3回。いつのころから知らないけれど「絶対おいでぇーよー(来なさいよ)」と言われるのでお参りしています(笑)昨日もお参りしてきました。

玄関から婆ちゃんのペースで一方的な会話で始まります。こちらの話はまったく聞いてません。「よぅ来た、よぅ来た、あがられぇ(お入りなさい)」「今日はトイレはええんか?」「飲むか、麦茶入れてやろうか、オロナミンがええか?」「ささ、ここで拝んでぇよぉ、線香つけちゃろうか?」そして読経。その最中もズッと話しかけてくれてます。お経の後半に入ると「ありがと、ありがと、もうええで。そこのお布施持って帰ってや。お菓子もたくさん買うといたから。はいはい、ありがとう。オロナミン飲むか?トイレは大丈夫か?気をつけて行くんやで」と玄関が閉まります。

大きな買い物袋に一杯詰まった駄菓子をスクーターの荷台に括りつけていると、また玄関が開いて「気をつけて行くんで(行きなさい)」と言いパタン。また開いて「なんで車で来んかったん、単車じゃ心配じゃわ」でパタン。「来年も来るんやで」でパタン。「事故しぃなよ」でパタン。「死んじゃおえんよ」でパタン。これが延々続きます。

年々シワが増え、どんどん小さくなっていく婆ちゃんですが、このやりとりが楽しみでお参りしているといっても過言ではありません。人が一生で遺すモノ……それは人それぞれ。派手地味、大小、貢献なんて尺度は取っ払って、自分にとっての「その人」を味わいたい。そんなスタンスも楽しいですよ。

2014年8月4日月曜日

青木此君楼(あおきしくんろう)の詩

誰に教わったか覚えていません。
でもこの時期になると思い出します。
拝むってこういうことだと教えられます。
仏に接するってこういうことです。
ちょっとむずかしい表現もありますが、
素直になればしみこんできます。
なんども読み返して欲しいと願います。

力およばぬものばかり
あうて誠にふれる
目がへりくだる
わるぎなどさらさらない
あやまちはどこからでもおこる
しわ作りて笑む
ひざ正して聞く
ついに髄に達している
二つに分かれている
一つに固まっている
たびたび言いたりない
心のなかをうちあける
この世に仏うまれている

2014年8月3日日曜日

蝉と共に大合唱

今日は午前中(9時と11時)、二座の『高蔵寺盆合同供養祭』が営まれます。当初は盆の期間中にお留守や都合のつかない方に向けての開催でしたが、「お寺での勤行が気持ちいいから」とおっしゃる人も増え始めて、おかげさまで二座とも満席になる盛況ぶりです。

真言宗では仏前勤行次第という経本を在家(一般)の人たちといっしょに読経しますが、こと高蔵寺の檀家さんは声が大きいんです。これはよその和尚さん達から指摘されて初めて知ったことなんですが、とにかくキチッと揃うお声は圧巻です。9時の部でふと思い立ったのですが、一度『大総供養』と銘打って年末の第九合唱のように「みんなで声を揃えてお唱えする日」を設けてみたら面白いかも。1つの念仏の繰り返しじゃないお勤めはきっと圧巻だと思います。

これに負けじと境内の蝉たちも小雨の中、大合唱しています。よくよく考えたら、蝉は地中に7年間くらいいるらしいから、ズッと地中で読経や太鼓を聴いて育ったのでしょう。同じ鳴くなら境内で合掌したい。そんな願いがあるから大音量なのかもしれませんね。

2014年8月2日土曜日

ぜ〜んぶ繋がっているからさ

私はモノをはっきり言うタイプですが、白黒決着が苦手です。他人が熱くなってくるとちょっと冷めてみてしまいます。スポーツや音楽には熱くなるんですけどね……政治とか社会とかエコなんかは「どっちもどっち」という視点でみてしまう。

盆行でいろんなご家庭をお参りすると、世の中には本当にいろんな立場があって、一概に線を引くことは出来ないと痛感します。それでも江戸時代から続く檀家と菩提寺の関係にはなんとも表現しにくい信頼があって決して争うことはない……面白いなぁと思います。

生涯百姓だと自他共に認めるおじさん。この人のガンチクは面白い。「世の中、無農薬、無農薬って言うけどなぁ、農薬は毒じゃねぇんよ、あくまでも薬じゃ。な〜んもわからん小娘がガーニック(たぶんオーガニックのこと)じゃねぇーとおえん(ダメだ)とおらぶ(叫ぶ)けど、おめーの口紅のほうがよっぽど毒じゃわ!」要は良質の農薬は日本の農業にとって必要であって、虫なんかいたらそれこそ死活問題。無菌農法なんてのも、おじさんから言わせれば気色悪いことだと言う。

檀家の中にはたくさんのお考えがあって、長年お参りしていると「ほぅ、そんな考えもあるんだ」くらいの捉え方でどんどん肥やしになってくるから不思議です。

以前、河合隼雄さんが講演(書籍だったかも)で、山頂にゴルフ場を造ったら麓の家が大雨の土砂で流されてしまったことを例に挙げて、人間はこういう問題が起こると「大雨が悪い!」と雨を止まそうとはしないで、ゴルフ場を責め立てる。それも極端な話であって、ゴルフも余興としては必要だし、承諾を得て建設している。ということは、人間はこの地球上で生きている以上、自然を大なり小なり壊して生きていることを自負しないといけない。そのサジ加減を学ぶべきだし、自然の変化による予兆を察知する努力が必要だと説かれていました。

結局、超自然やオーガニックの崇拝だけでは生きられないんです。ぜんぶ繋がっているから、関係ないこともないし、関係がありすぎることもない。なんとなくありのままで、適当になすがまま……それくらいで丁度良いような気がします。極限の暑さで衣をまとい、仏前を拝み、いろんな人と話しているとそんな気がしてきます。力みなさんて……って声がよく聞こえ出すんです、お盆には(笑)

2014年8月1日金曜日

小さなお接待

昨日の話。盆行でとある一軒家にお参りしました。チャイムを鳴らすと「はーい!」と声がしたのですが、なかなかカギを開けてくれません。どうしたのかな? と待っていると小学生の女の子が出てきてくれました。何年生ですか?と訊くと「4年生になりました」と緊張した面持ちで答えてくれました。

その子に仏間へ通してもらい、灯明とお香に火を入れて拝み始めました。背中には人の気配がしたので、家族がお揃いだな……と拝み続けました。少し暑さを感じたので横にある扇風機を回してくれないかなぁ……とも思いました。

読経が終わり、汗だくになって火の始末をして振り返りました。そこにはチョコンと女の子だけが座っていました。「今日はお留守番ですか?」と訊くと「はい」と頷き、三つ指をついて「今日は父も母もいません。私1人でございますので、なんのお構いも出来ません。お茶も出せません。お許し下さい。これをお納めください。」とお布施を渡してくれました。

私は「お母さんと練習したの?」と問いました。女の子は元気に「はい!」と笑顔で答えてくれました。扇風機は準備していたから、きっとスイッチを入れ忘れてしまったのでしょう。それでもその行儀良いお接待に暑さは吹っ飛び、清々しい気持ちになりました。来年はお茶が出るのかな? 私はそんな期待をして、その家を後にしました。

2014年7月31日木曜日

お墓ではしゃがんで拝むべきなのか?

盆行がはじまり、毎朝早くから走り回っています。今年の暑さは濃厚な感じがしますね。

さて先日の「間違いだらけのお墓参り」という記事について、多数ご意見が寄せられました。別に正誤を争うためじゃなくて、本儀をちゃんと知りましょうね……というご提案のつもりです。また、早とちりで「お墓に水をかけちゃいけないんですね!改めます!」という人もおられました。字面で判断するのではなく、しっかり読み込んで解釈して欲しいと心から願います。

ちょっと補足しておきます。その番組で「墓参には立ったままのお参りが良いのか、それともしゃがむべきか?」と問うていました。番組では「しゃがむべし」の正解で、その理由は「先祖を見下ろしてはならない」でした。一見、誠にもっともな気がします。でも、昔の墓石は3メートルを超えるようなものもあります。その時はこちらがどれだけ背伸びをしてもずっと見下ろされています(笑)今の現場だけで話すとかならず歪んだ答えになるんです。

墓参の際は、立ってもしゃがんでもかまいません。そこは立地によると思います。しかし可能ならば、丁寧にその場で三礼(さんらい=気持ちの中で3回拝礼する)して、そのあと静かにしゃがんで右膝をつけて礼を尽くすことをオススメします。そのあとはそのままでも立ってもかまいません。理由は前にも説きましたが、施餓鬼の意味も含んでいるので「同等」であることを示して施しを始めるためです。仏さまの供養には「差別(しゃべつ)」があります。魂の格を明確にしていますので、各々の立場に対する供養方法は異なるのです。私たちは無意識ですが「お供えを上げる」とか「お下がりを頂く」とかちゃんと使い分けているでしょう。

大地に膝を着けるということは、自分より格下の魂(畜生、餓鬼、鬼など)と同等となり、安心(あんじん)を与えて施すための第一歩なのです。これは子供たちと接するとき、目線を合わせて安心をさせる行為と同じです。上から見下ろしているとやっぱり威圧感があるでしょう。以前、とある議員さんが小学生にバッチを授与しているニュースが放映されていました。その小学生たちの顔はなぜか強ばっていました。たまたま私は、そのニュースのコメンテーターを勤めていましたので「ちょっとしゃがんでなさったら笑顔になるのに……」と説きましたところ、たいへん大きな反響があり、その議員さんも次からはしゃがんで接するようになられ、子供たちは笑顔で「ありがとうございます!」と言うようになりました。そう、目線は安心を与えるのです。

要は相手の立場を察して臨機に供養を巡らせること。密教で云う「差別」は世の中のそれとは一線を画すもので、ちゃっと立場によって振る舞いを変えることを指しているのです。もう一つ付け加えるならば、よく「まごころ込めて」と言いますが、そのまごころは行為によって滲み出るものであることを忘れてはなりません。口や気持ちだけじゃ伝わらないのです。片膝をつけるだけで供養の密度はグッと上がることを、ここに補足しておきます。

2014年7月28日月曜日

間違いだらけの「知っておきたいお墓参り」

昨日のお護摩はさすがに灼熱でした。参拝の皆さんもさすがに護摩壇から離れての読経です(笑)蝉の声と競う堂内は夏本番の様相です。蝉は7年くらい地中に居るといいますから、きっと太鼓や読経はいつも聞いていたのでしょう。太鼓に合わせて鳴いているように聞こえてなりませんでした。

そろそろ巷ではお盆の準備に入ります。テレビでも『お盆特集』が放送されるようになりました。先日も「知っておきたいお墓参り」というテーマの番組がありました。ちょっと興味があったので拝見しました。講師は墓石組合の偉い人でした。

冒頭「お墓の真意は?」を説くのかと思いきや、いきなりクイズ形式で進行して一抹の不安を覚えました。お墓の役割をじゅうぶん理解せずに作法に走ると必ず歪みが生じます。これは仏事全般にいえることなんですが……。

5つほどの問題があったと思います。中でも驚いたのが「霊園で他人の名前を記載している水桶を使ってもよいか?」という質問。答えはもちろん。当たり前ですよね、他人様の道具なのですから。作法やマナーではなく道徳の問題です( ̄。 ̄;)

つぎの問題が「墓石に水をかけたらそのままにしておいてよいか?」で、答えは×。墓石は女性の肌より敏感だから必ず拭き取るべし…だそうです。この理屈なら雨上がりには毎回タオル持参で墓地に行かねばなりません。私は女性の肌のほうが敏感だと思います(笑)

それから「お墓に供えた供物は持ち帰って食べてよいか?」という質問。根本、墓参は施餓鬼供養ですから、、食べるなんて言語道断、信じられない行為です。地域によっては飢餓で苦しんだ歴史から、食べて「鬼の子のように強くなれ」という異例もみられると云いますが、基本は持ち帰ったとしても食べません。本当は一晩そのままにして翌朝片付けるのが作法です。しかし番組では「先祖と食を共有する文化である」と言い切っていました。

こういうことが全国で放送されて、真に受ける人が出てくるわけです。よく生物の絶滅危惧を憂う話題がありますが、風習や作法は情報氾濫により一気にバランスを崩し、間違いが正統として拡がり始めます。信仰や仏事においては、決して東京が上位ではなく、東日本のほうが近年の歴史であることは認めなければならない事実です。1000年以上続く、奈良・京都を西日本の仏教儀礼文化こそが日本の真、安っぽい番組の屁理屈に流されてはいけません。

2014年7月27日日曜日

炊飯器にこだわっても悟れない

本日10時から高蔵寺『お不動さん』です。息災護摩の厳修と法話をいたします。今月は別名「土用護摩」とよび、酷暑の中での護摩は特に御利益があると云われています。ぜひお参りください。

悟りなんて急ぐものじゃないし、他人と比べるものじゃない。なのに、ちゃんとした入り口から学ぼうとせず、雑学で武装して好みだけをチョイスしてわかったような気になっている人が、最近多いような気がします。

先ずは自心を知ること、そして尊敬できる師匠に出会うこと。これは手元に針を打って、そこから糸をピーンと延ばしていく。そして「ここだ!」という所にもう1本、針を打って糸を結ぶ。この作業が自心と師匠の関係なのです。これを目印にしっかり学べば、少々迷っても悟れます。

こんな笑い話があります。ある男が電気屋で「一番美味しく炊ける炊飯器はどれだ?」と訊ねました。店員はあれこれ説明したうえで「これです」と一番高価な物を勧めました。男は「高すぎるよ。それなら良い米を買うほうが賢いぞ」と突っぱねました。すると店員は「大事なのは米ですよ。良い米ならどれで炊いても美味しいですよ」と笑いました。

方法や方便、統計ばかりに気を取られ、本来を見失う。お米=自心、店員=師匠です。大事なのは尊敬して素直に随うこと。理屈で悟れたためしなし。ご参考までに。

2014年7月24日木曜日

朝顔と寺子屋

父は朝顔作りの名人でした。今は老いて引退しましたが、あんどん、切り込み、大輪、水耕などあらゆる栽培方法で楽しませてくれました。その父の名言に「朝顔は50年やったと言っても、しょせん50回だから」というのがあります。モノゴトのチャレンジは無限のような錯覚を抱いていても、時間と季節との関係が不可欠で、こと植物はいくら作りたくても年ごとの栽培となるわけです。半年以上かけて仕込んでも、咲くのは一朝。昼前には萎んでしまうのです。

高蔵寺の『夏休みこども寺子屋』は平成10年から開校し、今年で16年目(途中1回休校)となりした。合計で15回、毎月の『こども寺子屋・サタデースクール』は300回を超える計算になります。毎回、特別変わったことをしているわけではありませんが、信仰と躾(しつけ)をテーマに背伸びをせずにやってきました。

去年まではしゃかりきにチラシを配布していましたが、今年はネットと最小限のご案内のみでもかかわらず、募集告知前から申込みが殺到し、例年の倍の子供たちが集まりました。申込みはFAXのみで、問合せは電話のみ。開校前々日には保護者においで頂き、修行衣を授与。親御さんからしてみれば、たった半日の開校では手間のかかることをお願いしました。それにも関わらず、すべての方がキチンと決まりに則って速やかに対応して下さいました。子供たちも、いっけん大人しい子ばかりかな?という印象でしたが、手のかかる子供はおらず、レベルの高いこぼんさん修行を体験できたと思います。

よく人は「昔の子供は……」と今を比較して大人しい現代っ子を卑下しますが、決してそれは鵜呑みできる意見ではなく、徐々に子供の意識も進化している。「今の親は……」と嘆くのもちょっと短絡的であり、メールなど簡易は人付き合いではないものを、発信元がちゃんとお願いすれば無責任なやりとりにはなりません。

父の言葉ではありませんが「寺子屋は15年やったと言っても、しょせん15回だから」、でも確実にその中で去年よりは大きな花を咲かせているような気がします。

2014年7月17日木曜日

鳴り物禁止と寺の鐘

今年は友人たちの子供が多数、高校野球に出場しています。そんな年齢になったのですね。赤ちゃんの頃から知っている子供たちが坊主頭でニキビ顔、汗を散らしながら全力で戦う姿には心を打たれてしまいます。

岡山県大会は県内の4球場で開催されていますが、うちから自転車で5分程度の場所にも球場があって賑やかな応援が繰り広げられています。しかし、今年は開催が始まってもシーンとしている。まだ一回戦だから応援が少ないのかと思っていたら「今大会から鳴り物禁止」となったそうです。私は学生時代ブラスバンド部でしたし、夏の風物詩としてあの応援が大好きで、境内にいても聞こえだすとワクワクしていました。それが今年から聞こえない……。ほかの球場は鳴り物OKでなのに、なんだか残念な気持ちでいっぱいです。

ここからは想像で書くので間違っているかもしれません。なぜ禁止になったのか? かなりの確率で想像できること……ひょっとしてご近所の苦情があったのかも。それならますます残念で複雑な気持ちになってしまいます。

現代では、お寺の鐘で「うるさい!」とクレームをつける人がいると云います。何百年来、鳴り続けているモノに対して、最近越してきた人が文句を言う。なんともやるせない気持ちになります。球場に関しては、あくまでも想像の域を出ませんので何とも申せませんが、ちょっと気になり記してしまいました。

事柄には順序があります。郷に入っては郷にしたがえ……少し強引に聞こえるかもしれませんが、少しばかり新参者のわがままがさまざまなバランスを乱しているような気がしてなりません。

2014年7月16日水曜日

善悪はいつも有耶無耶なのかも

私は良い悪いを判断するのが苦手です。曖昧だといわれても灰色決着でいいじゃんと思ってしまうタイプ。だから目くじら立てて騒ぎ立てる人は避けたくなるし、声を荒げて反対を主張する気にもなれません。

これは師匠に影響を受けているのだと思います。師匠は生前「一瞬でその人を判断するな。檀家は家三代を見よ!」と厳しかった。息子がダメでも孫で良くなることもあるし、祖父の代の栄華を孫が食い尽くすこともある。みんな、ヘソのつながった延長線上に存在しているんじゃ。それが口癖でした。だから私は短気なくせに、そこだけは長〜い目でモノゴトをとらえるようになったんだと思います。

今朝の出来事ですが、中学生の息子が学校に携帯を持ってくる友達の話題をしていました。持参は基本的に禁止。でもバレなきゃいい、てかほとんどバレない。バレるのは、周囲の密告からだと興奮気味に話してくれます。「そりゃ、悪いことは正義をもって注意するべきだから、密告する子は偉いねぇ」と言うと、「それがそうでもないんよ。そいつらも携帯電話を持っていなくて、持ってる子を妬んでチクるんだよ」と語尾を強めました。「禁止でもね、遠方の子もいるし、家の都合で持たないと不便な子もいるから、どっちが正義かわからん」と呆れ顔でした。

結局、人目があるから持っていても使えない。こうなると何がなんだかわからなくなってしまいます。善悪なんてこのレベルで、最終的には有耶無耶(ウヤムヤ)になることもよくあります。一瞬の正義が仇となることもありますし、最悪の事態が良薬になることもあります。また、表面的に立派でもその中に潜む嫌らしい下心が原動力となっていることもあります。答えなんてなくて、その瞬間のモノゴトの捉え方で一喜一憂しているだけなのかもしれません。


2014年7月15日火曜日

ハリネズミのジレンマ

家族が一斉にスマホに機種変更しました。私はガラケーとiPhoneを使い分けているので、設定や質問はすべてこちらの仕事です。これが……たいへんでした。ショップに入ったのが16時、帰ってきたのが22時を過ぎていました。そこから各種設定です。機種もバラバラであれやこれや目が回る作業の連続です。

いまやネットの世界では何重にもセキュリティが課せられ、我が身は自分で守らなければなりません。複雑さゆえに自分のページにさえ二度と入れない……なんてこともしばしばです。たいへんな時代になったものです。

私が最初に読んだ法話集には「ハリネズミのジレンマ」という例話がありました。とてもシンプルなお話ですが、今でも強烈な印象が残っています。周囲を疑い続けたネズミたちはドンドン自らの刺を増やして、けっきょく愛し合った者同士でさえ、触れ合うとお互いを傷つけてしまう。そんな内容でした。

便利という進歩は、ドンドン不自由にしているような気がします。同時に、扱う人のレベルによって凶器にさえなってしまいます。そしてまともに活用しようとしている人が「手間という被害」を被ってしまいます。本当の平和とは鍵をかけること防犯することではなく、鍵がなくてもお互いを信じ合える世界です。そんなの理想? といわれるかも知れません。でもそれはつい最近まで日本で見られた風景です。これ以上、ハリネズミにはなりたくないなぁと想う今日この頃です。

2014年7月13日日曜日

リアル昔話……5つの傾向

昔話にはよく、正直じいさんと意地悪じいさんが出てきます。ばあさんバージョンもあります(笑)日本話の面白いところは、登場場面ですでに、善悪のキャラクターがはっきりしています。そして最後までその逆転はありません。

坊さんの仕事は幅広い年齢層と接します。また、坊さんはいろんな世間話を耳にします。これは他の職業よりダントツで多いと思います。もちろん昔話のように最初から善悪がはっかりしない展開がほとんどです。しかし最後には明暗が分かれるエピソードが多い。激しい場合は、それが末期の場合だってあるわけです。

現実問題としては、それぞれのエピソードにほとんど正直者は出てきません。意地悪する人も出てきません。でも明暗が分かれちゃう。なぜだかわかりませんが、それぞれのエピソードを吟味してみると傾向ははっきり出てきます。

バッドエンドの人は、「わがまま」「おかげさまと言わない」「過去の悪いことをむしかえす」「人と比べる」、そして「二番煎じ」。この5つが絡んで善からぬ方向へ突き進んでいくようです。もちろんこれは私感です。でもちょっと身の回りをこの視線で調査してみてください。けっこう的を射ているかもしれません。ぜひともご報告を……お待ちしております。

2014年7月11日金曜日

頭が良すぎると結果がともなわない

勝敗にこだわって生きると根が生えてくるよ……と教わったことがあります。いつだったか記憶は定かではありませんが、中学生くらいだったと思います。いまだに時々、頭をよぎります。私はよく勝敗にこだわってしまうので、この金言は活かせていませんが、他人を見ると「なるほど!」と納得することもしばしば。客観的には理解できているようです(笑)

先日、プロ野球のナイターをラジオで聴いてたら、華々しく登場したルーキーたち(投手)の活躍を分析していました。才能があるのに結果が残せない選手、荒削りなのに大輪を咲かせる選手、調子が出てくると故障に悩む選手……。

元キャッチャーの解説者は最後に「頭が良すぎると結果がともなわない」と解説を括りました。試合中に考えすぎたり、過去の失敗を引っ張りすぎたり、自分なりにという修正をしたり、いつもまでも敗戦を恨んだり……。野球でいう「頭が良すぎる」ということは、根に持つことを指すのだそうです。

これって社会にも言えることだと思いませんか。

2014年7月10日木曜日

それだけのこと……に大きな感動

昨日の朝、1本の電話がありました。ふだん聞き慣れないお寺の住職さんからの電話。私からすれば大先輩。ドキドキしながら受話器をもちました。

「こうゆうさんですか? 突然ごめんなさい。昨日の講演は良かったですよ。お坊さんも何名がいらしたけれど、皆さん褒めておられましたよ。それだけなんですけど、これだけは伝えたくてね。これからも頑張ってください。」一昨日の民生委員会の講演のご感想、1分に満たない内容でしたが、跳び上がるほど嬉しかった。

それだけのこと……これがなかなか言えません。私自身も素直に感動を相手に伝えることはヘタクソです。「良かったよ」その一言は、助言や感想より心に残るものだと改めて感じました。お互い褒めましょうね、ちょっとだけでも。

2014年7月9日水曜日

知恵と智慧は違う

知恵と智慧は違います。仏教でこれを説くと「御仏の慈悲が……」なんて言葉が出てきて、よけいややこしく理解を遠ざけてしまうような気さえします。受けとめ方によっては、知恵は浅はかで智慧こそ有意義なものというような誤解も生まれてしまいます。

単純に噛みしめて素直に説明すると、知恵は知識とアイデアを融合させたもの。大きなことを動かすというより、些細なことを創意工夫してより良くすることをいいます。「ちょっとしたヒント」だと思ってもらって間違いではないと思います。この知恵を姑息に使ってしまうと、知恵の前に「悪」がついたり、「入れ」がついたり、あまり感心される結果にはなりません。

智慧は経験から沸き出るもの、、相手を深く想い、全体を把握して、大きな結果すべてを善い方向に収める力を指します。知恵をアイデアと説くなら、こちらの智慧はトータルデザインのようなイメージかも知れません。

知恵は良い悪いを選別して注ぎ込む、いわば小さなモノを完成させる工具、智慧はすべてを包括して大きなシステムをカタチにする工場。それは両方が不可欠だと覚えておきましょう。そして大事なのはどちらも使いこなすこと……これは経験(実践)を重ねるしかありません。机上の屁理屈では何も動かない。これを最も肝に銘じておくべきだと思います。

2014年7月8日火曜日

怒りの沸点概論

今日は午後から倉敷芸文館で講演をします。民生委員の大会です。あまり立つことのない大きな会場で今から楽しみです。

さて「怒りの沸点が低くてすぐに怒ってしまう」そんなお悩みをよく受けます。じっくり話を伺うとすごく興味深くて、こちらの質問にも徐々に声を荒げてきます。本当に カンシャク玉です。先日も電話で、墓地についての質問を受けました。境内の空き地は墓地になるのか?そんな質問でした。私は法要前でしたので、その旨をお断りして端的にご説明しました。しかし話は一方通行で、どんどん別の供養話に展開して支離滅裂。私は整理をして最初の疑問に戻り諭そうとしました。すると「ご住職は短気ですね!」と切られてしまいました。しばし唖然(・・;)

結局、怒るとなにが問題なのかを突き詰めると「冷静に解釈できない」「落ち着いて対処できない」という情況を招き、せっかくの結果も悪い方向に収まってしまう。もしくは良くない印象を与えて価値を下げてしまうことにあります。それはすごくもったいないことです。私の知り合いにもすぐに熱くなる人がいますが、その人についたキャッチフレーズが「正論が間違って聞こえる男」、傑作でしょう(笑)

相談というのは、ほとんどが質問にすでに答えが出ている場合が多くて、この相談にもちゃんと出ています。それは「怒りの沸点が低い」という部分です。これを本人が解っているのだから簡単です。沸点を高く設定するか、沸点が低い穏やかなの人間関係を気づけばよいだけのこと。感情を温度で診ることが出来ているなら簡単なことで、自分にとっての「適温」を探せばよいだけのことです。

ついでに説くなら、沸点が低いことの利点も見つめてみるべきです。沸点が高いことが必ずしも立派なことではないという角度から、低いから何が出来るのかを問うてみると面白い。もう少しつけ加えれば、自分の感情の温度が読めているなら、他人の温度も読めるでしょうから、いろいろ観察してみると沸点の活用法が見つかります。また、沸点が低い人に限って、他人には熱湯のような意見を投げかけて挑発したり、大事なところで冷たい水を差すような言動をとったり、けっきょく沸点が低いのは自分のエネルギーだけでなく、自分の蒔いた種で他人のエネルギーを増幅させて、高いカロリーを一気にとりこんでしまっているのです。

感情の沸点を観るときに役立つヒントは「自力」か「他力」かということです。穏やかな人は「自分のせい」、短気な人は「他人のせい」、この根本はかなり影響しています。温度は「自分のせい」と思えば下がり、「他人のせい」と思えば高騰します。それだけのこと……ちょっと冷静に分析してみてはいかがでしょうか。短気には無理かもしれませんが(笑)

2014年7月7日月曜日

反対の可能性もある

本日、朝10時より高蔵寺縁日『お薬師さん』の法要を勤めます。無病息災のお護摩と生活に役立つ法話をいたします。ぜひお運びくださいませ。

最近「可能性」という言葉が気になっています。「病気になる可能性」「災害に遭う可能性」など、あまり良い方向で使用されていない感じがするのです。そこがどうも気になります。

真言密教の教えを活用していくと、いつも常識とは真逆の解答が出てきてます。一見、天のじゃくでヘンコツな理屈に聞こえるのですが、そこにパッと光明が差し込んで解決に導かれます。

可能性も一点を見つめて危機感をあらわにするだけで訴えているものか……そんなことを思います。例えば「病気になる可能性」を口にしたとき、そのリスクと同時にメリットもあるのではないか。暴飲暴食でメタボになり肥満になる可能性をみた場合、その真逆には栄養がみなぎってこれまで以上のパワフルな活動が出来る可能性もあるのです。災害もそれによって被害が出るということは、その逆の利便を得ている可能性もあるでしょう。

弱点の裏に利点。片方ばかりみて嘆くのではなく、その裏で得ている素晴らしさについても光を当てると批判だけではない得策が生まれると思います。これはモノゴトだけではなく、人に対しても言えること。ダメな可能性ばかりをクローズアップして本来もっている素晴らしさを摘んでしまう必要はないのです。可能性という言葉を聞いたら、中心にコトガラを置き、キレイな円を描くイメージを持ってみてください。抱えている問題も案外、捨てたもんじゃない。大逆転の材料となり得るのですよ。

2014年7月6日日曜日

坊さんという職業

拝、ボーズ!!』更新しました。ぜひお聴き下さい。今回のゲストは『ボクは坊さん。』と著者・白川密成(みっせい)さんです。お四国札所の住職として、また作家としてご活躍の若者です。私より10歳若いのですが、祖父の跡を継いで住職になった境遇はよく似ています。

彼は「仏教をポップに伝えたい!」という情熱をもち、あらゆる角度からわかりやすく導けるようにと頑張っています。そんな彼とラジオの中で本音トークを繰り広げました。脱線しながら、それでも真意を出し合って、日本仏教の現状とそこに置かれた状況を確認することが出来ました。

後半、雑談の中で「けっきょく、ちょっと違う。ちょっと解らない。ちょっと不思議。そんな曖昧が坊さんの素晴らしさかも知れない」という結論が出たことは今回の大きな財産だったような気がします。

職業として明確にされることは素晴らしいことなのですが、社会の認知を高めようとしてもこれだけ多種多様な情況に置かれている職業は他にありません。平均がとれない職種だといえると思います。同時に、目に見えぬ世界を拝み、祈る仕事は信じる者の浅深いによって価値願がまるで違う。世の中はどんどん明確さを求め、坊さんもそれに応えようともがいている現状。上記の言葉は現場の素直な感想なのです。無意識に肩の力がちょっと抜けました。いつのまにそんなに力んでいたのだろう……不思議なくらいに。

2014年7月5日土曜日

間違った道案内

古書店で見つけた、とある昔のエッセイ集から。

都会の地下街で道を訊ねているおばあさんを見かけました。訊かれたおじさんは身振り手振りで親切丁寧に教えてあげていました。私は横で微笑ましいなぁと見守っていました。

しかししばらくして、おばあさんの行きたい所とおじさんの教えている所はぜんぜん逆方向ではないかと気づきました。声をかけようとしたら、すでに2人は動き出していました。後から追いかけましたが、けっこうな早足でどんどん歩を進め、なかなか追いつきません。

おじさんは長い動く歩道(エスカレーターのような)におばあさんを乗せて見送っていました。すると、しばらくしておじさんは急に走り出し、動く歩道と併走しだしました。そうです、おじさんも間違いに気づいたのです。おばあさんは慌てて逆向きの歩道に乗ろうとしましたが、どうすることもできず、反対方向へ流されていきました。

人は他人を信じ助けを求めます。人は喜んでいただこうと他人に手を差し伸べます。その志は素晴らしくても、根本が間違っていれば到達する場所も人も異なります。また訊ねる人も見る目を養わなければ、希望とはまったく異なる方向へ進んでしまいます。人生においても同じことが言えると思います。

2014年7月4日金曜日

寺子屋で親が育つ理由

今、お寺では『夏休み一日こども寺子屋」を受け付けています。今年はどうしたわけか、告知前からの問合せも多くて順調に参加者が増えています。

内容はこぼんさん衣装をつけて、半日のお寺修行を味わってもらうという、宿泊もなければ、派手さもなしといういたってシンプルな寺行事です。なのに毎年、なぜか人気があります(笑い)

他でやっている寺子屋と少し違うのは保護者との接し方かも知れません。「ぜひおいでください!」とこちらがアピールするより、「参加させてください!」とあちらからお願いに上がる発心(ほっしん)を大事にしています。これは高飛車にやっているのではなく、あくまでも「修行」というくくりから生まれたシステム。こちらが媚を売って指導するのではなく、決まりを守れぬ子供にはお引き取り願うこともないとは言えません。

またメールのやりとりは極力さけて、申込みはファックスか持参のみ、問合せは電話か来山のみ、前日(指定日)に保護者が衣(こぼんさん衣装)と資料を取りに来る。特別な事情はべつにして原則、これを約束してもらっています。

世の中、便利になりました。便利になると不作法も増えてきます。大事なのは足を運び、顔を合わせることです。それは子供にかぎったことではありません。子供とは半日の付き合いですが、その前に保護者との繋がりを明確にしておく。ファックスの文字、電話の応対、寺への参り方……そこから『こども寺子屋』は始まっています。

2014年7月3日木曜日

合わせて頂くことも大切

なかなか更新できなくてごめんなさい。

日曜日、高野山へ日帰り参拝をしてきました。人をお連れして、ゆっくりお参りするのは3年ぶりでした。久々の祖山は、来年の開創行事をひかえ、世界遺産も手伝って、世界からの観光客でたいへん賑わっていました。

そのせいで参拝者が減ったと嘆く声も聞かれますが、私のみるかぎりでは「お互いのバランスがよい」という印象を受けました。ときどき話題になる「観光客は不作法だ」という見方もちょっと違うような気がします。文化の違う諸外国からも大勢訪れているのですから、それは仕方ないことでしょう。

それより大事なのはサービスとしての進化をしつつ、これまでの参拝者が堂々と作法や行儀を示して導いて差し上げることが大事だと思います。日本の諺には「郷に入れば郷に従え」というものがありますが、郷がしっかりしていれば、そこには「厳」が生まれます。厳とは、厳しくするという単純な意味ではなく、その空間が緊張と崇拝で引き締まっていて凛としたようすを云います。この精神でここまでの歴史が保たれてきたのです。外国の方々も自分たちに合わせた観光地ではなく、1200年つづく修行の道場を味わいたくいらっしゃっているのです。これまでの参拝者が背中でそれを伝えるべきだと思います。

合わせることは大事ですが、合わせて頂くことも大切です。僧侶はそこに着目して、俗に降りることだけに終始せず、蓮座(菩薩のステージ)に引き上げる意識をもって導くべきだと改めて強く感じる旅となりました。

2014年5月26日月曜日

愚痴は毒なり

いよいよ『拝、ボーズ!! in 歌舞伎町2014』開催まで1週間を切りました。楽しいイベントになると思います。ぜひお運びください。今週の『拝、ボーズ!!』テーマ【なめ茸】も更新しました。お楽しみください。

最近では葬儀の形式もさまざまです。ちょっと選択肢が増えすぎたような気さえします。「家族葬」なんて言葉の解釈も、家と葬儀社と寺院でビミョーに違うような気がします。静かに送りたい、派手にしたくない、安く営みたい……その本音はなかなか複雑なものです。時には親族がもめて、弁護士が立ち会うようなケースも出てきました。

こうなると、葬儀の意義や引導の重要性など、まったく別の話となり、残念なやりとりの連続で拝む立場の気持ちは削がれてしまいます。売り言葉に買い言葉はなるべくさけたい。とりあえず亡くなったらリセットして差し上げて、菩提としてしっかり御霊を磨き上げたい。そんな気持ちで挑むようにしています。


人それぞれ生きているかぎり、いろんなわだかまりはありますよね。でも「同じやるなら気持ちよく」をモットーに取り組んで欲しいと切に願います。いがみ合いながら、ぼやきながら、取り組んでも後味は悪くなります。末期がそれでは悲しすぎます。

人間のスペックは差違があるように思えますが、仏さまの目線では同じです。要はモノゴトに取り組む態度、姿勢、心持ちですべての価値が決まるのです。これは葬送だけでなく日々の行いにも言えること。ちょっと意識するとかなり変われると思います。愚痴は毒なりでございます。

2014年5月25日日曜日

死神の手伝い

嵐の大野君演じる『死神くん』という深夜ドラマが話題になっているそうです。死を迎える人の前に現れて、さまざま末期を手伝うという内容みたいです。

このタイトルを知ったとき、ふと厳しい先輩和尚さんの言葉を思い出しました。私が20年前、住職になったときに贈られた言葉です。「坊さんの仕事は死神の手伝いじゃない。葬儀の数で一喜一憂すんな。住職でいた在務期間、一切の死者を出さぬつもりで勤めよ」けっこう強烈でしょう(笑)上っ面を読むとかなり語弊と極論を産む言葉です。ちょっと落ち着いて紐解きましょうか。

真言宗は現世利益(げんぜりやく)と掲げた宗派です。今この状態で利益を授かるために行を積みます。もっといえば「即身成仏・そくしんじょうぶつ」の宗派。元々、仏なのだから利益があって当たり前というのが行者観なのです。そこが顕教とまったく違う観点です。(ここで勘違いしてはならないのは、必ず「発心・ほっしん」ありきということ。仏に成ろうという気持ちが最大の呼び水であって、誰も彼もが皆そこのステージへ上がれるというわけじゃない。ここを履き違えると真言僧侶=サービス業となってしまう)

現世利益の中には「幸せ」や「健康」も含まれており、もちろん「長寿」も祈るわけです。ご縁あって菩提寺とつながっている檀家は、いわば共同体であり、ご本尊の子であり、住職の弟子であるわけです。住職はご本尊に日々、檀家(それに関わるすべての者たち)の安穏を祈っているわけで、死を待っているわけじゃない……これが本業なのです。


ここを見据えて、葬儀を捉えると葬儀の度に「残念で仕方ない」気持ちとなり、住職自身の非力をご本尊に懺悔しなければならない……この気持ちから上記の先輩の言葉は発せられたのです。このことを説きますと、世間一般の人々はたいていポカンとなされます。驚くことに坊さんでも異論を唱える者もいるのは事実。でもこの突き詰めた理想こそが日本仏教を「葬式仏教」などと言わせない根本理念であることだと認識しておくべきです。

事件がなけりゃ警察は要らない。病がなければ医者はいらない。死者が出なければ坊主はいらない。みんなわかっているのです。そのためだけの存在じゃないってことを。ならばその先に成すべきことに光を当てて、さらなる高さへ魂を上げるべきだと思います。間違っても「死神の手伝い」が仕事じゃありません。

2014年5月24日土曜日

御宝号(ごほうごう)は応援言葉

お坊さんじゃない一般人の知人に御宝号(ごほうごう)の説明メールを書いていたら、なんだか皆さんにも読んでいただきたくなってきたので、加筆してお届けします。

空海さまを拝するとき、南無大師遍照金剛(なむだいしへんじょうこんごう)と唱えます。他の宗派は「南無阿弥陀仏」であったり、「南無妙法蓮華経」だったりしますが、
古儀真言宗では祖師(空海)のお名前を唱えます。

〈南無〉は呼びかけ
〈大師〉は天皇が下賜くださった弘法大師号
(遍照・金剛〉は師匠から授かった両部の法名

ですから「南無大師遍照金剛」とは、さまざまな立場で授かったお名前を連呼していることになります。この意味を紐解くとこれが格好いいのです。

金剛は金剛石=ダイヤモンドです。ダイヤモンドは地球上で一番固い鉱物。それを砕き、研磨するには、自身より固いモノと切磋しなければ成りません。弱い志だと輝きは得られないし、相手のほうが固いと自身を木津つけてしまいます。だから〈金剛〉とは強烈な命がけを表しているのです。

そうして得た輝きで周囲(世の中)を〈遍照〉(遍き照らす)するわけです。苦難から身をひかず、命がけでぶつかり、堅固な魂を持って爽やかに周囲を照らせ!という意味が込められています。


「南無大師遍照金剛」とは、いわば空海さまを見習えという人生の応援言葉です。ときに自身に向けて、ときに衆生に向けて、叱咤激励する念仏だといっても過言ではありません。そこには悲壮感はなく、ポジティブに生き抜こうぞ!という志の証です。しかし残念ながらそこまでの意図を知り、唱えている人は少なく、行とは悲壮感に満ちた苦労話のネタであるが如く、あやまった布教と陳腐な方便で世の中を欺いています。

今日もガンガンぶつかって金剛石を見つけましょう。そして遍照いたしましょう。とにかく爽やかにネガティブにならずサラリを意識して世の中を楽しみたい。まじめを笑いながらでハードに行ずる。これが空海さまのおっしゃる精進だと思います。

2014年5月23日金曜日

病魔を祈祷するということ

ちょっとご無沙汰してしまいました。お変わりありませんか。私は宮大工講演会、研修、出張、仏教カフェなど慌ただしく動いています。来月1日にはラジオの公開収録『拝、ボーズ!!in歌舞伎町2014』が控えています。トークの殿堂で「坊さん」についておもしろためになる法話を展開いたします。

父に病魔の疑いがあり、1ヶ月ちかく検査の日々でした。付き添いの母のほうが心配になるくらい大病院を行ったり来たり。待ち時間で相当のロス。行き交う知人には状況説明。ますます医者嫌いになりそうな日々でした。病魔の進行を脅かすくせに、検査結果は連休で延期される。個人的な投与を目的とする実験的な薬剤を契約させる。どれも不安をさらに増幅されるものばかりでした。

私の出来ることは「気にしないこと」「心配しないこと」の2つのみ。祈願の世界では決めつけないことが鉄則なのです。病気と聞くと周囲がそれを構築させる。ないものまで呼んできて尾ひれ背ひれをつけて「不幸」を作り上げるのです。拝み方にはいろいろあります。その病原に対して撲滅を祈る方法もあれば、誤診にすることも許容なのです。要は「病でなかった」ことにすれば解決するのです。

父の場合、結局「異常なし」で一件落着。なんの問題もありませんでした。不安におののいた数ヶ月。いらぬ憶測と最悪の事態を話し合う日々。0の地点を平常にするならば、心配はマイナスの数値を示し、異常なしで0に戻っただけのこと。なのに母は「善かった」と安堵します。プラスには一度も向いていないのに……それが人の心です。それでも善かったと感謝できるところに信心の芽は育つのだと思います。

2014年5月13日火曜日

カタチにしてなんぼの世界

本日、備中真言布教研究所を立ち上げます。法話と布教をとことん研究実践していく機関です。その発足記念講演会を午後から予定しています。

僧侶限定の行事ですが、私の人生において大きな影響を与えてくださったお二人を迎えてご講演いただきます。お一人は宮大工・小川三夫棟梁です。私のお寺の新客殿を建てて下さった日本一の棟梁です。もうお一人はこの方を世の中に紹介下さった作家・塩野米松さんです。この方の「聞き書き」があったからこそ、知ることができ、説くことができ、技にふれることができたのです。


尊敬する和尚さんに言われた衝撃の言葉。「拝んでいたら具現できて当たり前。神仏のお住まいを最高にしたいという気持ちも当然。どんな表現より一生一代、伽藍に堂宇を建立すること、それ住職の意義なり」小手先や屁理屈ではなにも動かなかったのが客殿新築でした。死にもの狂いでした。若いから無謀でした。でもそこで学んだことが今に生きています。

出来ないじゃなく、やる気がないだけ……なんど言い聞かせたことでしょう。理想や夢は所詮マボロシ。カタチにしてなんぼの世界。その入り口に立ってもらうことが今日。小さな会ですが、最大の目的を持って始動します。

2014年5月12日月曜日

最初に褒められたこと…覚えていますか?

自分から「褒められて伸びるタイプです」と言われると、ちょっと「?」と思ってしまいます。自分から言いますかね、そんなこと。逆に「叱られて伸びるタイプ」にはなかなか出会えません。こう考えると「褒められて伸びるタイプです」と自ら言う人は「怒らないでね」と遠回しにアピールしているかもしれません。いずれにせよ、個人的には「?」なセリフです。

師匠はよくとある死刑囚の最期を法話にしていました。文通で知り合った女学生と最期までやりとりを交わす。彼女はその男の文章に励まされて成長していきます。教師を目指して努力して夢が叶ったとき、それが最期のやりとりとなります。

「いよいよお別れですが、どうぞ良い先生になってください。私はここまで貶されて生きてきましたが、ただ一度、先生に絵画を褒められたことがあります。いま振り返るとそれが最上の喜びでした。どうぞ生徒を素直に褒めて育ててあげてください」


私にはまだこの法話をする勇気はありませんが、寺子屋で子供たちと接していると褒めると目がキラキラします。やたら褒めるのではなく、ここぞという場面で「素晴らしいよ!」と心から褒める。これって子供にとっては最高のご褒美なんだと思います。

私自身、最初に褒められたことはなんだったのか?いま振り返ると幼稚園の時に、ハサミを先生にお返しする際、刃のほうを自分に向けて手渡したら「立派ねぇ!」とみんなの前で褒めてハグしてくださったことを鮮明に覚えています。小さな出来事でも一生忘れないこと。褒めてもらえると、上手くいかない時の糧になるのではないかと思います。

2014年5月9日金曜日

毎日、雲を意識してみる

「上を向いて歩こう」という歌がありますが、私は1日になんども空を見上げます。幼いとき、祖母から「退屈したら雲を眺めなさい。そしていろんなカタチを見つけて想像しなさい」と言われました。祖母は縁側でいろんな雲の話をしてくれました。

今から10年前、沖縄にご縁があってよく訪れました。友人は何かにつけて空を撮影していました。その都度、「龍だよ」「天女だよ」などと説明してくれました。そう言われればそうかもなぁ…と頷いていました。


写メという便利なツールで私も空を見上げる癖がつきました。お気に入りは友人に送ったり、サイトにアップすることが日常になりました。その画像が評判となり、いつしか「こうゆうさんの頭上には不思議な雲が出る」と言われ出しました。最近、そのコツについてよく訊ねられます。コツなんてありませんよ(笑)ただ人よりはよく空を見ています。なにか見つけてやろうという目で見ています。それだけです。興味なんてそんなものだと思います。目を凝らす、全身全霊で、それも楽しみながら……。それだけです。皆さんもぜひ意識してみて下さい。楽しいですよ。

2014年5月7日水曜日

捨てるならください

月に1度、門前の掲示(絵と言葉)を変えます。ときどき貼り替えの最中に「古いほうはどうされるんですか?もし捨てるならください」と言う人がいます。1人に差し上げてしまうと他にも我も我もと言い出して収拾がつかなくなるから、なるべくそういう時間帯はさけて行うのですが、それでも「先月のアレ、どうしました?」と訊いてこられます。



そんな時はハッキリ言うようにしています。「一ヶ月、日光にさらされ劣化もひどい。これはこれでお役目ごめんなんです。捨てるから差し上げられません。だって捨てるモノなんですもの」と。捨てるからください……あんまり気持ちのいいセリフじゃないですね。こういう人は捨てないモノ(売っているモノ)には目もくれない。不思議です。

2014年5月6日火曜日

ランドセルにお守り

お寺のゴールデンウィークは連日、法事が続きます。1日に複数件ってこともあります。現代では故人の命日にキチッと営まれることは少なくなり、少し繰り上げた土日、祝日に申込みが殺到します。お百姓が減り、会社勤めが増えたせいでしょう。その理由に加えてお年寄りは孫の帰省を心待ちにしていて、最優先が子孫となっている場合が多いようです。故人はあくまでもきっかけであり、親族の予定が優先だと憂う気持ちもありますが、久しぶりの再会に笑顔がこぼれているとそれはそれで素晴らしい光景だなぁと思います。だって法事くらいでしょう、三世代以上がその場に集う一族の行事はね。

この時期は来る日も来る日も法事を勤めているわけですが、そんな状況だからこそ新しい法話がどんどん生まれ、ご披露する機会をえて、しっかりしたものに完成していきます。今年も数話できたのですが、中でも「お守り」のエピソードは大好きな内容となりました。



お寺にはお守りを授かりに多くの人々がやってきます。こと春になりますと、子供のために孫のためにと求めに上がられます。新学期がはじまりますと、それらが通学カバンやバックにしっかりとつけられます。中にはたくさんのお守りをつけてる子もいます。しかしその光景は信仰でありながら学校も大目に見て下さる民間信仰のあかし。もっと言えば、その子たちが別に意味を知っているわけではなくて半ば強引に大人から授かったものです。

私はここになんだか不思議な愛情を感じてしまいます。日本独特のお守り文化。しかしそれもいつしか外され、年齢にしたがってワガママになり、好き勝手を生き始まるわけです。でも目には見えなくてもそのお守りの心はずっと変わらず、祖父母や両親の愛情は濯がれている。私にもアナタにもお守りの思い出はあることでしょう。いつしか置き忘れたお守りは今でもそばにあるはず……感謝しなきゃね。


2014年5月3日土曜日

頑張るとはなんだ?

先日、テレビのロケでのことです。若いADさんにちょっと気合いを入れてやろうと「今日も頑張ってるか!」とハッパをかけました。すると「ハイ!頑張っています!!汗いっぱいかいてますから」と額の汗を見せてくれました。「…………。」私は唖然としてしまいました。皆さんはいかがでしょうか。

頑張るとは、嫌な顔をせず懸命に使命の最善を尽くすことを云います。もっと言えば、みんなの状態が下がっても「頑なに気勢を張って」補助し、成功へと導く姿をいうのです。「汗をかく=頑張っています」というアピールを堂々としちゃってはこの先が思いやられます。


高野山でよく先輩に言われたことは「一生懸命を口にするな!生きている限り当然のことなんだから」ということでした。私の尊敬する和尚さまは「寝ていても命がかかっているのですよ」が口癖です。起きられない、寝坊した、眠気をひきづって仕事をする。寝ることの密度が粗雑になっている証拠です。

頑張るや一生懸命を口にするレベルではなにも成就してはいません。やったあとに「頑張ったのに」「一生懸命やったのに」なんてセリフは言語道断。出来て当然、成し得て当たり前の密度で生きていれば、このような後悔は絶対にないのです。

おい、AD君よ、頑張るのは汗の量じゃないのだよ。

2014年5月2日金曜日

ありがたいから「リエキ」は「リヤク」に変わる

手作りしてモノを販売していると値段で悩みます。手間暇かけて作り上げたモノの値つけなんて作者には無理だと思います。そして聞こえてくる「高い、安い」という言葉に一喜一憂したりしている……。

でも私の場合、作り手が「坊さん」なので、それがわかると突然「ありがたいいですね!」とすんなり買われていったりします。なんとも複雑な感覚ですが、よくよく考えてみれば「利益」という言葉は、「リエキ」とも「リヤク」とも読めるわけで、その線上に私は立っているのかな? なんて考えてしまいます。「ありがたいいですね!」は正にその境界線を越える瞬間かもしれません。




それなら坊さんが作る「モノ」だけがありがたいのか。これを突き詰めると興味深く流通を観察したくなります。自分の欲しいモノ、作れないモノ、代わりになるモノ、元気が湧くモノ、助けになるモノ、明るくなれるモノなどなど、なんでも「ありがたい」からお金を払うのでしょう。漢字には「有難い」もあれば「在難い」もあるわけで、どちらも「得難いモノ」に対しての感謝、そしてその作品、作物には見えない影なる力「おかげさま」にリヤクを観じ、リエキを得ているではないか。そう考えれば、この手で作り出すモノ全てにものすごい可能性が含まれていて、それは全ての人々が出来る作業であると思えてくるのです。日々の仕事で行き詰まりを感じたならば「私の作品(仕事)は誰にとってありがたいのか?」と問うて、弾みを付ける方法もあるような気がします。

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2014年4月29日火曜日

過ちを笑顔に

27日、新潟糸魚川の後半のお寺の法要に講演で花を添えさせていただきました。無事すませ、その足で北上し上越へ向かいました。旧友とのドライブ、その晩は大浴場のあるホテルに泊まり、昔話で盛り上がりました。

うまく伝わるかわかりませんが、ちょっと不思議感覚を記しておきます。翌日、朝風呂に入ったときのことです。寝ぼけてた私は何気なしに洗い場のシャワーをひねりました。すると凄い勢いで冷水が天井にむけて噴き出ししまいました。

あわわ…と慌てていると後ろから「冷たい!」と声がしました。恐る恐る振り返るとそこにはおじさんと小さな男の子が身体を洗っていました。私は「しまった!」とオロオロするしかなく、とっさに「ごめんなさい、ごめんなさい」と力なく発しました。

すると、おじさんは「あ、かまわんよ、大丈夫、大丈夫」と満面の笑みで返してくれました。男の子も「だいじょうぶ」と笑顔でした。



不思議な気持ちになりました。最悪のミス、怒られて当然のミス、正直お詫びの言葉すら浮かばずにいたのに。二人の反応に妙な爽やかさを覚え、清々しい気持ちになりました。

過ちも対応一つで素晴らしい宝となる。上手くまとまりませんが、こんな一場面が勇気や元気をくださるのだと思うのです。

2014年4月26日土曜日

親父の跡継ぎなんかを目指すから愚僧になるんです。

寺には親父がいて息子がいるケースが多く見られます。跡継ぎとして、父(住職)の背中をみながら働いているパターン。しかしこの形でキッチリ出来ている関係はほんの一握り、ほとんどがヌルい関係が多いように思います。基本的な(高野山)修行はとにかく早いほうがイイ、これが私の持論です。数多くの選択肢をもてるようになってからじゃ逃げ道を他に求めるし、横着や近道の知恵をつけるとどんどん希薄な行となるので、物心ついた時点で没頭を勧めます。高野山での修行を「一人前になった!」と思っている人が大半だけれど、実はそれを車に喩えると仮免許。そこからどんどん路上(実践)を積まなきゃなりません。ほとんどの場合、親父がその席にいるため、ここでペーパードライバーならぬペーパー坊主が生まれます。

私は「うちの若いの頼むわ」とよく頼まれる立場です。ならばと粋に感じて一肌脱ぐのだけれど、たいていの場合、その親父に口を挟まれる。「そこまではせんでいい」「まだ早い」「徐々にでエエ」などなど。母親からはその真逆。「とにかく鍛えてやって欲しい」と頼まれます。どっちやねん!? と悩んでいるうちにその子は来なくなります(笑)



それなら私に頼まなくてもいいような気がするのだけれど、結局その甘さがその息子をどんどんダメにしています。私はよく「住職はなにも世襲制(親子代々)でなくていい」と公言しています。しっかり磨かれたやる気のある他人、値の繋がりのない弟子のほうが絶対に世の中のお役に立つと信じているからです。今の私自身の活躍は、右も左も……いや、上下さえもわからぬ10代の修行時代と、先代の祖父が全権を譲ってくれて、実践で完膚無きまでに揉みくちゃにされたからこその産物です。それしかないんです。

若き跡取りよ、親父に言われてうちに来るようじゃすでに勝負あったですよ。世の中に通用する立場になりたいなら、自立、発心、没頭を呪文にして単独で実行に移せ!厳しいけれどそれしか言いようがありません。


2014年4月23日水曜日

修行とは悟りから始めるためのモノ

今朝、元相撲取りの舞の海さんがラジオで喋っていました。相撲界の悪しき伝統を変えるべきだと彼らしく冷静に淡々と、それでいて熱い口調でした。

要約すれば「科学的にやるべきなのに喰っちゃ寝て、そして稽古じゃいけない。能力のある細い子が入門してから鍛えられるほうがよい。最初からおデブちゃんだと、後に糖尿病などのアスリートらしからぬ病に悩まされる。」のだそうです。

そしてこう付け加えられました。「病気や怪我に遭うとその結果、護摩修行などの精神世界に走る。」と。もちろんそれも大事とフォローしてたけど、それは失言です。それは違う。もちろん怪しい方向へ進んで自滅するスポーツ選手は多い。でも護摩修行をピンポイントで指してはいけない。頭にシリコンを入れた人が言うことじゃない。

修行はね、精神を鍛えたり、悩みを解消するためじゃない。鍛えた精神をもっと活用するものだし、悩みを悩みと思わぬ心を作るものなんです。苦行は、悟るためじゃなく、悟りから始めることなんです。古式伝統の世界が壊れたと錯覚すると最新科学でモノゴトの観点から優位に立ちますが、それは合理的にコトを整理しただけであって根本を変えるモノじゃないのです。


プロレスラーの棚橋選手が武藤選手との対談で「サプリメントで体調を管理して、健全な心身を維持する」と発言に対して、武藤は「昔のやり方をバカにしちゃいけないぜ。豪快に酒でステーキを流し込んで『レスラーってすげー!』と思わせてな。翌日はフラフラだよ。でもな、また激しく練習して、そこで血管をブチブチ切ってコレステロールを吹き出しながら、ウオーッ!!と闘う姿もレスラーなんだよな」と返していました。

世の中がスマートを推進する流れは確かにありますよね。決められた時間にそれだけを演じるならそれでいいのです。でもそれ以外の場面でも力士であり、レスラーであり、僧侶なんです。皆さんの立場もしかり。どちらが正論という話しではありません。一つの角度から否定しちゃなんないよというお話なのでした。

2014年4月22日火曜日

欲を生成してエネルギーとせよ!

一泊で上京していました。おかげさまで昨日、無事に銀座での個展が閉幕し、その後片付けをしてきました。大盛況だったそうで新たなファンの方も増えたとのこと。安堵とやる気が交錯する不思議な気分です。

先日の夜の法話会『抜苦与楽(ばっくよらく)』で話題にした「欲」の法話はかなり反響がありました。仏教は「欲を完全否定」というのが一般の人の印象みたいで、欲を肯定しただけで「えーーー!?」と驚きの声が上がっていました。禁欲こそ僧侶、仏教の美学だと思っている人が大半でした。


真言密教では欲を肯定しています。ロケットが飛び立つとき、大気圏を抜けるまでは莫大なエネルギーを消費します。置き換えると人間にとっての欲は、目的に向かうための「初期段階のエネルギー」という捉え方をします。例えば、モテたい!という欲があると自分を磨くでしょう。その意識で大きく容姿を変えていきます。そこからご縁が拡がって幸せをつかんだなら、その欲は毒ではなく浄いエネルギーだといえるでしょう。そのような考え方で欲を捉えると自分の内側には無限のエネルギーを貯えていることに気づけます。

大事なのはその生成方法です。石油だって原油のままでは使えません。原油を車に給油してしまうとその瞬間に壊れてしまいます。しかし正しい方法で濾過し生成をしたならば、ガソリンにも灯油にもなるわけです。自分のもつ我欲も正しい生成方法を身につければ人生の燃料になる。その生成方法を説いたのが真言密教であり、正しい修行法を身につければ、どんな苦難にも役立つエネルギーを自発させることが出来る。顕教とはまったくちがう観点から説いているのが密教なのです。

2014年4月21日月曜日

みんな「死」を考えて生きている

今週の『拝、ボーズ!!』を更新しました。髭と高野山の話で盛り上がっています。壮絶な修行の裏側も語っています。バラエティなので終始、ワイワイガヤガヤしていますが、その裏にある篤信を味わってもらえたら幸いです。お堅いイメージの仏教ですが、ここまで柔らかくすると驚くほど別角度から観得てくるモノがあると信じて14年間もやっています。ぜひお聴き下さい。

さて、昨日のブログにも記したように、昨日のスケジュールはハードでした。拝んで法話をするの繰り返し。その場も四十九日忌、三回忌、葬儀、カフェとバラエティにとんでいました。おかげさまでどの場面も充実しましたが、共通して訊ねられたことは「死をどう捉えたらいいのか?」という問題でした。

大事な人を亡くした、病気になった、老いを感じた……など理由はさまざまですが、行き着くところは「死」であり、その不安を少しでも解消したい。そんな人が多くいらっしゃいました。冗談抜きで私も死んだことがないので何とも言えませんが、いろんな死の場面に普通の人々より接することが多い立場です。それも成仏させるという責務のある立場です。なにか伝わるものはなかろうかと振り返りながらお答えしていきました。


その方便は現場でぜひ聴いてもらいたいと思います。文章だと必ず新たな疑問が生まれ、下手をすれば語弊を生みかねません。ライヴだとそこはその人に会った立場で例話を展開し補うことが出来るんです。昨日も興味深かったのは明らかに異教を唱える立場の方は場内にいらっしゃったのですが、あとで「教えはともかく私たちの供養は間違っていませんか?」と心をお開きになって訊いてこられました。これってたいへん勇気の要ることだと思うんです。でもせっかくなら訊いてみようと穏やかに打ち明けてくれました。

正直、答えは出ません。出ていても気づけないことなのだと思います。成仏とはそこを指しているのでしょう。でもどの角度からアプローチしてもはっきりいえることは「死」を感じればかんじるほど「生」から目が離せなくなるということです。生=今、であって如何に「この時」を高い次元で綿密に生きるかという部分に答えはあるのだと思います。

2014年4月20日日曜日

みんな超人

今日はこれから法事が2つ、そのあと13時から葬儀、そして15時から夢空間はしまやにて『くらしき仏教カフェ』、んでもって17時が仕上げ法要、で19時半からKappaRecordsにて夜の法話会『抜苦与楽』。どれも大事。

仏教カフェ、夜の法話会とも今月はまだお席に余裕があるようです。1日に倉敷で2つも法話イベント(それも1人の僧侶が!?)を勤めることは異例です。ぜひハシゴでお楽しみ下さい。詳しくはようまいりドットコムまで。



よくぞここまで詰め込んだという独行の限界スケジュール。でもこのくらいが私の場合、丁度良かったりします。1つに没頭するとどうも偏って歪な仕上がりになるタイプ。イイ意味ですべて腹八分的な力の入れようが向いているようです。

あれこもれも一度に出来るか!と怒る人がいますが、そういう人に限って一度もそんな状況に身を置いていないんじゃないかと思います。やってみると案外「自分ってやれば出来るじゃん」と褒めたくなるものです。

日常において専門職はそれを平気でこなしています。端から見ると超人に映るけれど、慣れてしまえば普通。コックさんもガソリンスタンドのお姉さんもお医者さんもバーテンダーも主婦だって神業の連続じゃないでしょうか。

2014年4月18日金曜日

本物の作り方

なんでも茶化す人がいますが、バカバカしいこともやり続けることで本物になります。ある名工は「本物だから続くのです」とおっしゃっていました。

私のやっている法話ラジオ『拝、ボーズ!!』は今年で14年目になります。当初は「半年続かないよ」とか「坊さんなのに漫才みたいだ」など好き放題言われたものです。中にはご丁寧にスポンサーに止めるように抗議をした坊さんもいました。

そして2年目で放送界の名誉ある賞、ギャラクシー賞をコミュニティーFMで初めて受賞し、インターネット通じて世界中の人に愛される番組に成長しました。今では文化人や著名人、そして他宗派のお坊さんや神主さんまでファンを公言してくれるようになりました。



この成功を今ふり返るとパートナーの桂米裕さんとスタッフの前澤さんの一言に尽きると思います。米裕さんは「いつ終わってもええ、今週が最後とおもって、毎週トークの1作品を完成させましょ」と心構えで教えてくれました。前澤さんは「私たちが面白い、為になると思えばいいんです。信じるのはそこだけでしょう」と覚悟を教えてくれました。

そんなこんなでまだまだ続きます。また今年も東京で公開収録も決まりました。場所はトークの殿堂、新宿ロフトプラスワンです。お坊さんだけでここにお客さんを集めるのは異例だといいます。でも可能なのです。淡々と続けていれば人は認めてくれるのです。それだけは絶対に忘れちゃいけない。信じなければならないのは誰のことではなく、自分の行いなのです。

拝、ボーズ in 歌舞伎町 2014 -NO HAIBO,NO LIFE?-
  • 日 時  2014年6月1日(日)19:00開演(会場18:00)
  • 料 金  前売2,000円(当日500円プラス)飲食代別
  • 出 演  桂 米裕、天野こうゆう、いのうえエヴァ子、M・前澤

2014年4月17日木曜日

お供えは上を下への大騒ぎ

本日は月例の『仏教講座』の日ですが、27日の『月例祈願』を繰り上げてお勤めします。お間違えのないようよろしくお願いいたします。

来年度の高野山開創1200年の記念行事にともない、さまざまなイレギュラーの出仕が増えてきました。今月27日は新潟糸魚川の寺院にて、全国を縦断している高野山からの行脚隊を待ち受けて法要があり、そこで法話を勤めるために出かけます。50年に1度のこと……少々無理をしても頑張らねばなりません。


法事の席でちょっと面白いと思ったことにふれます。ご主人が法要前に「おい、本尊さまにお供えを上げなさい」と言う。お勤めのあと奥さんが子供に「ねえ、お供えのお下がりをお墓に持っていって!」と言う。法要後、お婆さんが孫に「仏さんのお饅頭のお下がり、あんたお上がり」と言う。

同じ供物でも上下を観じるとなかなか面白いと思いませんか?日本人の施しには上下があり、順序も存在します。平面を行き来しているわけじゃないのです。これが見えてくると言葉遣いや態度さえ変わってきます。日常でもちょっと意識してみてはいかがでしょう。

2014年4月16日水曜日

法話ラボ

これまで高野山真言宗の本山布教師としてここまでやってきました。この資格があるから各地で講演を勤めたり、テレビやラジオでも起用して頂いています。そろそろ何か還元できないかな?と考え、このたび『備中真言布教研究所(通称:法話ラボ)』という機関を立ち上げることになりました。正式な始動は5月からとなりますが、同じ備中地区の本山布教師である吉田宥禪(桂米裕)さんと組んでやっていきます。主な目的は布教の地方における研究です。ちょっと専門的になりますが、
  • 口説(くぜつ)布教……法務(法事、葬儀など)での実践法話の研究
  • 文書布教……寺報、配布物、掲示物などの文書による布教の探求
  • 布教話術……所作、表情を含んだ話し方(話芸)と装束、法具の使った法話の研究
  • メディア・空間活用……テレビ・ラジオ、ITを活用したメディア布教と                カフェやギャラリー空間での法話実践研究
  • 古典話芸……古典芸能とその話芸、真言先師による口説技術の活用を探求
  • アート活用……絵画、造形、映像を活用した絵(モノ)説きの研究
  • 子供布教……寺子屋を軸として子供向けの教化研究
  • 弘法大師伝……史実のみならず、伝承や民話に登場する祖師の研究
  • 海外布教……法話の海外流布、欧米文化との対比や導入の研究
ま、言ってしまえばこれまでやってきたことの総集編的な仕事です。それにともない、講座も開いて話し手の育成にも力を注ぎたいと考えています。

  • 本山の高野山真言宗本山布教講習受講者のための準備講座(高野山教師)
  • 僧侶プチ法話塾(対象:全宗派僧侶並びに寺族)
  • 心に残るスピーチ塾(対象:高校生以上の一般)
  • こどもお話塾(対象:小学生高学年から中学生)

スピーチをふくんだ一般人の話し方もご指導します。とはいっても私たちはアナウンサーではないので、僧侶ならではの「心に沁みる」お話の組み立て方と話し方、そして心の込め方を伝えたいと考えています。また子供たちが明るく人前で自身のアピールが出来るような「お話塾」も開きます。

たかがお話(スピーチ)と囁かれますが、口下手は持って生まれたものではなく、それを正しく学んでいないだけです。人間の最大のコミニュケーション手段を僧侶に学んでみる。きっと一生の武器になると思います。


さて今週末は『倉敷法話2連戦』です。日曜の昼、まずは3年目を迎える『くらしき仏教カフェ』。美観地区内にある古い蔵のカフェでの法話会。質疑応答を中心とした参加型の催しです。その夜は『Kappa Record Presents 法話会・抜苦与楽(ばっくよらく)』。こちらは商店街にあるカフェのあるレコード屋にて、お酒(もちろんソフトドリンクもあります!)を楽しみながら流れに任せて語り合う法話会です。ぜひ20日は法話三昧をご予定にお入れ下さい。詳しくはようまいりドットコムで。

2014年4月15日火曜日

行者式・三分割生活法

今週末は『倉敷法話2連戦』です。日曜の昼、まずは3年目を迎える『くらしき仏教カフェ』。美観地区内にある古い蔵のカフェでの法話会。質疑応答を中心とした参加型の催しです。その夜は『Kappa Record Presents 法話会・抜苦与楽(ばっくよらく)』。こちらは商店街にあるカフェのあるレコード屋にて、お酒(もちろんソフトドリンクもあります!)を楽しみながら流れに任せて語り合う法話会です。ぜひ20日は法話三昧をご予定にお入れ下さい。詳しくはようまいりドットコムで。

よく時間の使い方について訊かれます。個展などでたくさんの作品を披露すると「こんなに作る時間がいつあるんですか?」と驚かれます。私としては作品についての感想が嬉しいのですが、日頃の私の慌ただしさを知っている人はとにかく時間の割き方興味津々なんです。

私が尊敬する和尚さまに教えて頂いたことを参考にしています。この方はとにかくずっと拝んでいるんです。真言宗で「拝む」といえば、仏さまの側にいることです。「常に心の中にいらっしゃるじゃん!」と他宗派は反論なさるかも知れません。しかし真言宗「拝む」は、常に仏さまを観じて正しい作法(供養)を捧げ、真言(念仏)を唱えながら、ひたすら仏さまの真似をさせて頂くことを指すのです。これを四六時中行うことが理想です。



坊さんとて日常に追われているわけです。でもそれは言い訳であり、真を求めるならひとときも修行を忘れてはなりません。この方に教えて頂いたのは「1日を3等分して使う」ということ。1日を3つ割ると8時間が3つ。それぞれを「拝む」「学ぶ」「休む」に配分する。

  • 拝む……修行すること
  • 学ぶ……書籍で研究したり、人に会うこと、手紙を書くこと
  • 休む……食事をしたり、横になったり、ゆったりすること
これを意識すれば生活に「ケジメ」が生まれます。慣れてくると分割しているのに常に「仏さまを観じる」ようになってきます。このバランスを崩さないようにすれば、他人から驚かれるようなタイトなスケジュールをこなすことが出来るようになるんです。

ちなみに私はジッとして拝むことが苦手で、その方から「それが出来ないなら、書画や造形で仏さまに関わりなさい。これも行だと思って楽しんで製作しなさい」と助言されて今が在ります。

今朝、友人のブログ(親方パンチの現場日誌)で兼高薫さんの記事を見つけました。言わずと知れた日本屈指の旅番組のナビゲーター。地球を180周もなさった方です。兼高さんの人生配分は実に興味深いものでした。ご参考までに。
  • 最初の三分の一は、あとで世の中の役に立つようなことを習う
  • 次の三分の一は、世のため人のために尽くす
  • 残りの三分の一は、自分で好きなように使う

2014年4月14日月曜日

銀座で法話!

二回目となる「銀座で法話!」昨日、無事に終わりました。午前中、倉敷での法事を済ませ、飛行機に飛び乗りました。会場に着いたのは開演20分前、ヒヤヒヤでした。

3月に行われた一回目のリピーターもいて会場は熱気ムンムン。お顔ぶれをみて用意していた話の組み立てを変えました。当初、男性が多いと読んでいたのですが、蓋を開けると女性が大半でした。そこへ「うたかたり」の小林啓子さんが歌でお祝いしてくださいました。



今回お伝えしたかったこと。それはどんな綺麗事より、泥臭い行動力の重要性。耳年増ではなく実践。私の作る可愛い(←と言われる)仏さまにも壮絶なきっかけがあったのです。その辺りを個展開催記念の法話会でお話しできて本当に良かったと喜んでいます。

それにしても「銀座で法話!」というネーミング、偶然生まれた名前。インパクトがあってなんだか気に入っています(笑)

2014年4月13日日曜日

淡々とTurn, Turn, Turn

本日は2回目となる「銀座で法話」の集いを開きます。素敵なゲストも駆けつけてくれますので、ぜひご参加下さい。

銀座で法話会 4月13日(日)15:00〜 銀座はせがわギャラリー6階

昨日から高蔵寺の『こども寺子屋』の新学期が始まりました。今年も8月を除く第2、4土曜日の朝7時から、地域の子供を集めて開校します。もう20年を越えました。細々ですがなんとか続いています。この行事があったからこそ、新客殿は完成しましたし、世代を超えた檀信徒との交流も広がりました。

2名のときもあれば30名越えることもありました。私の人生の中で一番「淡々と」という気持ちで続いた行事だと思います。それは子供が相手だと小手先は通用しないし、ど派手なことは続かない。子供というものは常に期待を裏切る存在。期待はしない。でもズッと変わらず同じ場所で待つ。これを大いに学んだのが、私にとっての寺子屋なのです。



学校でも塾でもない。まして家庭でもない。決してニュースタイルでもない。でも「在り続けること」。これが宝と成るのです。時間を費やしてきた宝物。お寺は畑かも知れません。毎年、いろんな種(子供)がやってきて、実ったら巣立っていきます。それは淡々と巡りめぐる。

そういえば私たちが主宰している、歌と法話のコラボ『うたかたり』ではよくフォークシンガーの小林啓子さんがPete Seeger の『 Turn, Turn, Turn 』を披露してくれます。旧約聖書「コヘレトの言葉」をヒントに出来た曲だそうですが、「廻る、廻る、廻る」という自然の正しい流れを示しているとか。なんだか、淡々とTurn, Turn, Turn 同じ響きでリンクしているような気がしてきました。

2014年4月12日土曜日

タブレット画風

道具は手の延長……これは伝説の宮大工、鵤工舎の小川三夫さんの言葉です。道具に使われるな、あくまでも手先の延長。身体の一部のごとく道具を使い切る。これは何も大工さんに限ったことではありません。

ふとしたことから、iPadで絵を描くアプリを見つけました。いろいろ調べると版画やスケッチをするものも揃っています。絵だけはアナログじゃないといけない!この方面では私は少し意固地になっていました。でもその考えは見事に打ち壊してくれました。


自在です。本当に良く出来ています。指先でどんどん絵が仕上がっていくんです。もちろんかゆいところに手が届かない。でもそこがアナログなのです。これはこれで新しい画材となりうる正直な気持ちです。

よくよく調べてみると、iPadなどタブレット端末の手軽さは健常者のためだけでなく、さまざまな障害を抱えた人や力の弱くなった年配者のための開発だそうです。技術進歩の最先端はいろんな立場の方々への配慮から生まれてきているんですね。

2014年4月11日金曜日

若い時期に軸を

通学路でまた悲しい事故がありました。いつも申しておりますが、子供と大人の通う時間を変えるだけで防げる事故はあると思います。教師が狭い通学路お年寄りの多いの町を猛スピードで走り抜ける。これはごく近所でもよく耳にする話です。教師たるもの生徒の登校を待ち受けるそのくらいの余裕は必要だと思います。

さて昨夜、若い職人さんのスタートがテレビで特集されていました。親元を離れ、懸命に職場で鍛えられる姿は胸を打つものがありました。私自身15歳で高野山に入り、右も左もわからぬまま厳しく鍛えていただきました。い思うとそれは悲壮感に満ちたものではなく、それしか考えられない無我夢中の日々でした。未だに夢に見ます。それくらい強烈な思い出です。しかし今、自然と体が動くのは、そのときに身につけた所作であり、心得であり、信仰であります。

画面を通じて、彼らの頑張りを見ていて、ひとつ気付いたことがあります。それは「自ら進んで入った道であること」「楽しく活躍できる将来のイメージが描かれていること」そして「師匠や先輩をみて素直にかっこいいと憧れること」、この共通点がしっかりとした軸となっている。

難しいことはいらない。素直、尊敬、没頭……これが一人前の人間を育むのです。若い時期にこの境地に気持ちを向ける意識。大人はそこへ導いて差し上げる義務があると強く思います。

2014年4月9日水曜日

節目の日…はじめの一歩

4月8日、東京2連戦。午後1時から大田区の密蔵院さまにて今年最初となる『うたかたり』、午後7時から吉祥寺のニューロカフェにて『ハッピーボーズディ』でした。

うたかたりは桜の花吹雪の中、心地よい境内を眺めながら歴史ある本堂での公演となりました。会場は超満員。懐かしいお顔ものぞいてくれました。今から約15年前から細々つづけてきた「ほほえみ法話」というメルマガの愛読者が、たまたま早朝ジョギングをしていてお寺のポスターに私の名前を見つけて、急遽お運びくださったというサプライズもありました。もちろん初対面、奇跡というべき出会いはあるものだなぁと感動し、メルマガとはいえ何かをつなげる力は継続にあるのだと改めて思いました。



ハッピーボーズディは井の頭公園そばの小さなギャラリーにて開催しました。お釈迦さまの話から如来や菩薩、数珠などのいわれをジョークを交え説きました。後半はコラムニストのしまおまほさんとブッダサウンドユニット・TarikiEchoをお迎えして楽しく対談をしました。しまおさんのかねてからのご希望でTarikiEchoと初めてディープに話し合う機会を得ました。一見、同じ僧侶同士というくくりに見えますが、真言宗と浄土真宗の本音話は他では味わえないスリリングでユーモラスな内容になったと思います。


4月8日はお釈迦さまの誕生日。なにかを始める日にしたかった。今から30年前、この日から高野山の生活が始まりました。その節目にささやかですが、他に例のないイベントが出来て本当によかったと思います。

天野こうゆう『ほほえみほとけ展〜 お坊さんがつくる縁起物』

・期間3/29(土)から4/21(月)  店休日 4/1(火)4/3(木)
・営業時間10:30から18:30まで
はせがわ銀座ギャラリー


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2014年4月8日火曜日

本日、東京2連戦!

本日、東京にて『うたかたり』の公演がございます。うたかたりは、私の法話とフォークシンガー・小林啓子さんのコラボレーションで、法話の新しいカタチとして注目されています。本日は、密蔵院さまで奉納公演です。

夜は吉祥寺のニューロカフェにて『ハッピーボーズディ』を開催します。こちらはお釈迦さまにちなんだ法話をフランクに、また楽しい仲間をゲストに迎えてゆるりと楽しみます。若干数、お席に余裕があります。ぜひお運びください。

信者さんにどっぷりとお話するのとは違い、若い人たちの興味のままに語るのは難しいことですが、その緊張感とライヴ感はたいへん刺激を受けてます。今日もきっとおもしろい展開になると今からワクワクしています。


天野こうゆう『ほほえみほとけ展〜 お坊さんがつくる縁起物』

・期間3/29(土)から4/21(月)  店休日 4/1(火)4/3(木)
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2014年4月7日月曜日

お花に学べ

本日は高蔵寺花祭です。朝10時から薬師護摩と濯仏会をつとめます。

4月8日がお釈迦さまの誕生日。うちは1日はやく縁日に修しています。お釈迦さまはお生まれになっていきなり闊歩(堂々と七歩歩いた)され、「天上天下唯我独尊」と宣言なされました。天にも地にも尊き私の命は1つなり!という意味で、ここから仏教が始まったと云われます。

この散華は銀座の個展会場でお授けしています。
そのとき、天地はよろこび甘露の雨を降らし、大自然が大歓迎して活き活きしました。このようすを再現するために日本の寺院では、この時期に花御堂を飾り、甘茶を仏さまに捧げてお祝いするようになりました。甘茶には害虫除けの意味もあって、この時期に頂くことで人だけでなく家屋にとっても無病息災の功徳があるとされています。

このお祭で学ぶべきことは小さな花々の健気さの中に「唯一の命」に気づき、自身もその立場であることを自覚して大いなる魂の活躍を約束する。不必要なモノは何一つなくすべてを活かす方向で精進を始める。すべてが動き出す日本の春に、このような仏事があることはたいへん大きな意義があるのではないかと思います。あらためて考えてみてはいかがでしょうか。

天野こうゆう『ほほえみほとけ展〜 お坊さんがつくる縁起物』

・期間3/29(土)から4/21(月)  店休日 4/1(火)4/3(木)
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