2014年5月26日月曜日

愚痴は毒なり

いよいよ『拝、ボーズ!! in 歌舞伎町2014』開催まで1週間を切りました。楽しいイベントになると思います。ぜひお運びください。今週の『拝、ボーズ!!』テーマ【なめ茸】も更新しました。お楽しみください。

最近では葬儀の形式もさまざまです。ちょっと選択肢が増えすぎたような気さえします。「家族葬」なんて言葉の解釈も、家と葬儀社と寺院でビミョーに違うような気がします。静かに送りたい、派手にしたくない、安く営みたい……その本音はなかなか複雑なものです。時には親族がもめて、弁護士が立ち会うようなケースも出てきました。

こうなると、葬儀の意義や引導の重要性など、まったく別の話となり、残念なやりとりの連続で拝む立場の気持ちは削がれてしまいます。売り言葉に買い言葉はなるべくさけたい。とりあえず亡くなったらリセットして差し上げて、菩提としてしっかり御霊を磨き上げたい。そんな気持ちで挑むようにしています。


人それぞれ生きているかぎり、いろんなわだかまりはありますよね。でも「同じやるなら気持ちよく」をモットーに取り組んで欲しいと切に願います。いがみ合いながら、ぼやきながら、取り組んでも後味は悪くなります。末期がそれでは悲しすぎます。

人間のスペックは差違があるように思えますが、仏さまの目線では同じです。要はモノゴトに取り組む態度、姿勢、心持ちですべての価値が決まるのです。これは葬送だけでなく日々の行いにも言えること。ちょっと意識するとかなり変われると思います。愚痴は毒なりでございます。

2014年5月25日日曜日

死神の手伝い

嵐の大野君演じる『死神くん』という深夜ドラマが話題になっているそうです。死を迎える人の前に現れて、さまざま末期を手伝うという内容みたいです。

このタイトルを知ったとき、ふと厳しい先輩和尚さんの言葉を思い出しました。私が20年前、住職になったときに贈られた言葉です。「坊さんの仕事は死神の手伝いじゃない。葬儀の数で一喜一憂すんな。住職でいた在務期間、一切の死者を出さぬつもりで勤めよ」けっこう強烈でしょう(笑)上っ面を読むとかなり語弊と極論を産む言葉です。ちょっと落ち着いて紐解きましょうか。

真言宗は現世利益(げんぜりやく)と掲げた宗派です。今この状態で利益を授かるために行を積みます。もっといえば「即身成仏・そくしんじょうぶつ」の宗派。元々、仏なのだから利益があって当たり前というのが行者観なのです。そこが顕教とまったく違う観点です。(ここで勘違いしてはならないのは、必ず「発心・ほっしん」ありきということ。仏に成ろうという気持ちが最大の呼び水であって、誰も彼もが皆そこのステージへ上がれるというわけじゃない。ここを履き違えると真言僧侶=サービス業となってしまう)

現世利益の中には「幸せ」や「健康」も含まれており、もちろん「長寿」も祈るわけです。ご縁あって菩提寺とつながっている檀家は、いわば共同体であり、ご本尊の子であり、住職の弟子であるわけです。住職はご本尊に日々、檀家(それに関わるすべての者たち)の安穏を祈っているわけで、死を待っているわけじゃない……これが本業なのです。


ここを見据えて、葬儀を捉えると葬儀の度に「残念で仕方ない」気持ちとなり、住職自身の非力をご本尊に懺悔しなければならない……この気持ちから上記の先輩の言葉は発せられたのです。このことを説きますと、世間一般の人々はたいていポカンとなされます。驚くことに坊さんでも異論を唱える者もいるのは事実。でもこの突き詰めた理想こそが日本仏教を「葬式仏教」などと言わせない根本理念であることだと認識しておくべきです。

事件がなけりゃ警察は要らない。病がなければ医者はいらない。死者が出なければ坊主はいらない。みんなわかっているのです。そのためだけの存在じゃないってことを。ならばその先に成すべきことに光を当てて、さらなる高さへ魂を上げるべきだと思います。間違っても「死神の手伝い」が仕事じゃありません。

2014年5月24日土曜日

御宝号(ごほうごう)は応援言葉

お坊さんじゃない一般人の知人に御宝号(ごほうごう)の説明メールを書いていたら、なんだか皆さんにも読んでいただきたくなってきたので、加筆してお届けします。

空海さまを拝するとき、南無大師遍照金剛(なむだいしへんじょうこんごう)と唱えます。他の宗派は「南無阿弥陀仏」であったり、「南無妙法蓮華経」だったりしますが、
古儀真言宗では祖師(空海)のお名前を唱えます。

〈南無〉は呼びかけ
〈大師〉は天皇が下賜くださった弘法大師号
(遍照・金剛〉は師匠から授かった両部の法名

ですから「南無大師遍照金剛」とは、さまざまな立場で授かったお名前を連呼していることになります。この意味を紐解くとこれが格好いいのです。

金剛は金剛石=ダイヤモンドです。ダイヤモンドは地球上で一番固い鉱物。それを砕き、研磨するには、自身より固いモノと切磋しなければ成りません。弱い志だと輝きは得られないし、相手のほうが固いと自身を木津つけてしまいます。だから〈金剛〉とは強烈な命がけを表しているのです。

そうして得た輝きで周囲(世の中)を〈遍照〉(遍き照らす)するわけです。苦難から身をひかず、命がけでぶつかり、堅固な魂を持って爽やかに周囲を照らせ!という意味が込められています。


「南無大師遍照金剛」とは、いわば空海さまを見習えという人生の応援言葉です。ときに自身に向けて、ときに衆生に向けて、叱咤激励する念仏だといっても過言ではありません。そこには悲壮感はなく、ポジティブに生き抜こうぞ!という志の証です。しかし残念ながらそこまでの意図を知り、唱えている人は少なく、行とは悲壮感に満ちた苦労話のネタであるが如く、あやまった布教と陳腐な方便で世の中を欺いています。

今日もガンガンぶつかって金剛石を見つけましょう。そして遍照いたしましょう。とにかく爽やかにネガティブにならずサラリを意識して世の中を楽しみたい。まじめを笑いながらでハードに行ずる。これが空海さまのおっしゃる精進だと思います。

2014年5月23日金曜日

病魔を祈祷するということ

ちょっとご無沙汰してしまいました。お変わりありませんか。私は宮大工講演会、研修、出張、仏教カフェなど慌ただしく動いています。来月1日にはラジオの公開収録『拝、ボーズ!!in歌舞伎町2014』が控えています。トークの殿堂で「坊さん」についておもしろためになる法話を展開いたします。

父に病魔の疑いがあり、1ヶ月ちかく検査の日々でした。付き添いの母のほうが心配になるくらい大病院を行ったり来たり。待ち時間で相当のロス。行き交う知人には状況説明。ますます医者嫌いになりそうな日々でした。病魔の進行を脅かすくせに、検査結果は連休で延期される。個人的な投与を目的とする実験的な薬剤を契約させる。どれも不安をさらに増幅されるものばかりでした。

私の出来ることは「気にしないこと」「心配しないこと」の2つのみ。祈願の世界では決めつけないことが鉄則なのです。病気と聞くと周囲がそれを構築させる。ないものまで呼んできて尾ひれ背ひれをつけて「不幸」を作り上げるのです。拝み方にはいろいろあります。その病原に対して撲滅を祈る方法もあれば、誤診にすることも許容なのです。要は「病でなかった」ことにすれば解決するのです。

父の場合、結局「異常なし」で一件落着。なんの問題もありませんでした。不安におののいた数ヶ月。いらぬ憶測と最悪の事態を話し合う日々。0の地点を平常にするならば、心配はマイナスの数値を示し、異常なしで0に戻っただけのこと。なのに母は「善かった」と安堵します。プラスには一度も向いていないのに……それが人の心です。それでも善かったと感謝できるところに信心の芽は育つのだと思います。

2014年5月13日火曜日

カタチにしてなんぼの世界

本日、備中真言布教研究所を立ち上げます。法話と布教をとことん研究実践していく機関です。その発足記念講演会を午後から予定しています。

僧侶限定の行事ですが、私の人生において大きな影響を与えてくださったお二人を迎えてご講演いただきます。お一人は宮大工・小川三夫棟梁です。私のお寺の新客殿を建てて下さった日本一の棟梁です。もうお一人はこの方を世の中に紹介下さった作家・塩野米松さんです。この方の「聞き書き」があったからこそ、知ることができ、説くことができ、技にふれることができたのです。


尊敬する和尚さんに言われた衝撃の言葉。「拝んでいたら具現できて当たり前。神仏のお住まいを最高にしたいという気持ちも当然。どんな表現より一生一代、伽藍に堂宇を建立すること、それ住職の意義なり」小手先や屁理屈ではなにも動かなかったのが客殿新築でした。死にもの狂いでした。若いから無謀でした。でもそこで学んだことが今に生きています。

出来ないじゃなく、やる気がないだけ……なんど言い聞かせたことでしょう。理想や夢は所詮マボロシ。カタチにしてなんぼの世界。その入り口に立ってもらうことが今日。小さな会ですが、最大の目的を持って始動します。

2014年5月12日月曜日

最初に褒められたこと…覚えていますか?

自分から「褒められて伸びるタイプです」と言われると、ちょっと「?」と思ってしまいます。自分から言いますかね、そんなこと。逆に「叱られて伸びるタイプ」にはなかなか出会えません。こう考えると「褒められて伸びるタイプです」と自ら言う人は「怒らないでね」と遠回しにアピールしているかもしれません。いずれにせよ、個人的には「?」なセリフです。

師匠はよくとある死刑囚の最期を法話にしていました。文通で知り合った女学生と最期までやりとりを交わす。彼女はその男の文章に励まされて成長していきます。教師を目指して努力して夢が叶ったとき、それが最期のやりとりとなります。

「いよいよお別れですが、どうぞ良い先生になってください。私はここまで貶されて生きてきましたが、ただ一度、先生に絵画を褒められたことがあります。いま振り返るとそれが最上の喜びでした。どうぞ生徒を素直に褒めて育ててあげてください」


私にはまだこの法話をする勇気はありませんが、寺子屋で子供たちと接していると褒めると目がキラキラします。やたら褒めるのではなく、ここぞという場面で「素晴らしいよ!」と心から褒める。これって子供にとっては最高のご褒美なんだと思います。

私自身、最初に褒められたことはなんだったのか?いま振り返ると幼稚園の時に、ハサミを先生にお返しする際、刃のほうを自分に向けて手渡したら「立派ねぇ!」とみんなの前で褒めてハグしてくださったことを鮮明に覚えています。小さな出来事でも一生忘れないこと。褒めてもらえると、上手くいかない時の糧になるのではないかと思います。

2014年5月9日金曜日

毎日、雲を意識してみる

「上を向いて歩こう」という歌がありますが、私は1日になんども空を見上げます。幼いとき、祖母から「退屈したら雲を眺めなさい。そしていろんなカタチを見つけて想像しなさい」と言われました。祖母は縁側でいろんな雲の話をしてくれました。

今から10年前、沖縄にご縁があってよく訪れました。友人は何かにつけて空を撮影していました。その都度、「龍だよ」「天女だよ」などと説明してくれました。そう言われればそうかもなぁ…と頷いていました。


写メという便利なツールで私も空を見上げる癖がつきました。お気に入りは友人に送ったり、サイトにアップすることが日常になりました。その画像が評判となり、いつしか「こうゆうさんの頭上には不思議な雲が出る」と言われ出しました。最近、そのコツについてよく訊ねられます。コツなんてありませんよ(笑)ただ人よりはよく空を見ています。なにか見つけてやろうという目で見ています。それだけです。興味なんてそんなものだと思います。目を凝らす、全身全霊で、それも楽しみながら……。それだけです。皆さんもぜひ意識してみて下さい。楽しいですよ。

2014年5月7日水曜日

捨てるならください

月に1度、門前の掲示(絵と言葉)を変えます。ときどき貼り替えの最中に「古いほうはどうされるんですか?もし捨てるならください」と言う人がいます。1人に差し上げてしまうと他にも我も我もと言い出して収拾がつかなくなるから、なるべくそういう時間帯はさけて行うのですが、それでも「先月のアレ、どうしました?」と訊いてこられます。



そんな時はハッキリ言うようにしています。「一ヶ月、日光にさらされ劣化もひどい。これはこれでお役目ごめんなんです。捨てるから差し上げられません。だって捨てるモノなんですもの」と。捨てるからください……あんまり気持ちのいいセリフじゃないですね。こういう人は捨てないモノ(売っているモノ)には目もくれない。不思議です。

2014年5月6日火曜日

ランドセルにお守り

お寺のゴールデンウィークは連日、法事が続きます。1日に複数件ってこともあります。現代では故人の命日にキチッと営まれることは少なくなり、少し繰り上げた土日、祝日に申込みが殺到します。お百姓が減り、会社勤めが増えたせいでしょう。その理由に加えてお年寄りは孫の帰省を心待ちにしていて、最優先が子孫となっている場合が多いようです。故人はあくまでもきっかけであり、親族の予定が優先だと憂う気持ちもありますが、久しぶりの再会に笑顔がこぼれているとそれはそれで素晴らしい光景だなぁと思います。だって法事くらいでしょう、三世代以上がその場に集う一族の行事はね。

この時期は来る日も来る日も法事を勤めているわけですが、そんな状況だからこそ新しい法話がどんどん生まれ、ご披露する機会をえて、しっかりしたものに完成していきます。今年も数話できたのですが、中でも「お守り」のエピソードは大好きな内容となりました。



お寺にはお守りを授かりに多くの人々がやってきます。こと春になりますと、子供のために孫のためにと求めに上がられます。新学期がはじまりますと、それらが通学カバンやバックにしっかりとつけられます。中にはたくさんのお守りをつけてる子もいます。しかしその光景は信仰でありながら学校も大目に見て下さる民間信仰のあかし。もっと言えば、その子たちが別に意味を知っているわけではなくて半ば強引に大人から授かったものです。

私はここになんだか不思議な愛情を感じてしまいます。日本独特のお守り文化。しかしそれもいつしか外され、年齢にしたがってワガママになり、好き勝手を生き始まるわけです。でも目には見えなくてもそのお守りの心はずっと変わらず、祖父母や両親の愛情は濯がれている。私にもアナタにもお守りの思い出はあることでしょう。いつしか置き忘れたお守りは今でもそばにあるはず……感謝しなきゃね。


2014年5月3日土曜日

頑張るとはなんだ?

先日、テレビのロケでのことです。若いADさんにちょっと気合いを入れてやろうと「今日も頑張ってるか!」とハッパをかけました。すると「ハイ!頑張っています!!汗いっぱいかいてますから」と額の汗を見せてくれました。「…………。」私は唖然としてしまいました。皆さんはいかがでしょうか。

頑張るとは、嫌な顔をせず懸命に使命の最善を尽くすことを云います。もっと言えば、みんなの状態が下がっても「頑なに気勢を張って」補助し、成功へと導く姿をいうのです。「汗をかく=頑張っています」というアピールを堂々としちゃってはこの先が思いやられます。


高野山でよく先輩に言われたことは「一生懸命を口にするな!生きている限り当然のことなんだから」ということでした。私の尊敬する和尚さまは「寝ていても命がかかっているのですよ」が口癖です。起きられない、寝坊した、眠気をひきづって仕事をする。寝ることの密度が粗雑になっている証拠です。

頑張るや一生懸命を口にするレベルではなにも成就してはいません。やったあとに「頑張ったのに」「一生懸命やったのに」なんてセリフは言語道断。出来て当然、成し得て当たり前の密度で生きていれば、このような後悔は絶対にないのです。

おい、AD君よ、頑張るのは汗の量じゃないのだよ。

2014年5月2日金曜日

ありがたいから「リエキ」は「リヤク」に変わる

手作りしてモノを販売していると値段で悩みます。手間暇かけて作り上げたモノの値つけなんて作者には無理だと思います。そして聞こえてくる「高い、安い」という言葉に一喜一憂したりしている……。

でも私の場合、作り手が「坊さん」なので、それがわかると突然「ありがたいいですね!」とすんなり買われていったりします。なんとも複雑な感覚ですが、よくよく考えてみれば「利益」という言葉は、「リエキ」とも「リヤク」とも読めるわけで、その線上に私は立っているのかな? なんて考えてしまいます。「ありがたいいですね!」は正にその境界線を越える瞬間かもしれません。




それなら坊さんが作る「モノ」だけがありがたいのか。これを突き詰めると興味深く流通を観察したくなります。自分の欲しいモノ、作れないモノ、代わりになるモノ、元気が湧くモノ、助けになるモノ、明るくなれるモノなどなど、なんでも「ありがたい」からお金を払うのでしょう。漢字には「有難い」もあれば「在難い」もあるわけで、どちらも「得難いモノ」に対しての感謝、そしてその作品、作物には見えない影なる力「おかげさま」にリヤクを観じ、リエキを得ているではないか。そう考えれば、この手で作り出すモノ全てにものすごい可能性が含まれていて、それは全ての人々が出来る作業であると思えてくるのです。日々の仕事で行き詰まりを感じたならば「私の作品(仕事)は誰にとってありがたいのか?」と問うて、弾みを付ける方法もあるような気がします。

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