2014年7月31日木曜日

お墓ではしゃがんで拝むべきなのか?

盆行がはじまり、毎朝早くから走り回っています。今年の暑さは濃厚な感じがしますね。

さて先日の「間違いだらけのお墓参り」という記事について、多数ご意見が寄せられました。別に正誤を争うためじゃなくて、本儀をちゃんと知りましょうね……というご提案のつもりです。また、早とちりで「お墓に水をかけちゃいけないんですね!改めます!」という人もおられました。字面で判断するのではなく、しっかり読み込んで解釈して欲しいと心から願います。

ちょっと補足しておきます。その番組で「墓参には立ったままのお参りが良いのか、それともしゃがむべきか?」と問うていました。番組では「しゃがむべし」の正解で、その理由は「先祖を見下ろしてはならない」でした。一見、誠にもっともな気がします。でも、昔の墓石は3メートルを超えるようなものもあります。その時はこちらがどれだけ背伸びをしてもずっと見下ろされています(笑)今の現場だけで話すとかならず歪んだ答えになるんです。

墓参の際は、立ってもしゃがんでもかまいません。そこは立地によると思います。しかし可能ならば、丁寧にその場で三礼(さんらい=気持ちの中で3回拝礼する)して、そのあと静かにしゃがんで右膝をつけて礼を尽くすことをオススメします。そのあとはそのままでも立ってもかまいません。理由は前にも説きましたが、施餓鬼の意味も含んでいるので「同等」であることを示して施しを始めるためです。仏さまの供養には「差別(しゃべつ)」があります。魂の格を明確にしていますので、各々の立場に対する供養方法は異なるのです。私たちは無意識ですが「お供えを上げる」とか「お下がりを頂く」とかちゃんと使い分けているでしょう。

大地に膝を着けるということは、自分より格下の魂(畜生、餓鬼、鬼など)と同等となり、安心(あんじん)を与えて施すための第一歩なのです。これは子供たちと接するとき、目線を合わせて安心をさせる行為と同じです。上から見下ろしているとやっぱり威圧感があるでしょう。以前、とある議員さんが小学生にバッチを授与しているニュースが放映されていました。その小学生たちの顔はなぜか強ばっていました。たまたま私は、そのニュースのコメンテーターを勤めていましたので「ちょっとしゃがんでなさったら笑顔になるのに……」と説きましたところ、たいへん大きな反響があり、その議員さんも次からはしゃがんで接するようになられ、子供たちは笑顔で「ありがとうございます!」と言うようになりました。そう、目線は安心を与えるのです。

要は相手の立場を察して臨機に供養を巡らせること。密教で云う「差別」は世の中のそれとは一線を画すもので、ちゃっと立場によって振る舞いを変えることを指しているのです。もう一つ付け加えるならば、よく「まごころ込めて」と言いますが、そのまごころは行為によって滲み出るものであることを忘れてはなりません。口や気持ちだけじゃ伝わらないのです。片膝をつけるだけで供養の密度はグッと上がることを、ここに補足しておきます。

2014年7月28日月曜日

間違いだらけの「知っておきたいお墓参り」

昨日のお護摩はさすがに灼熱でした。参拝の皆さんもさすがに護摩壇から離れての読経です(笑)蝉の声と競う堂内は夏本番の様相です。蝉は7年くらい地中に居るといいますから、きっと太鼓や読経はいつも聞いていたのでしょう。太鼓に合わせて鳴いているように聞こえてなりませんでした。

そろそろ巷ではお盆の準備に入ります。テレビでも『お盆特集』が放送されるようになりました。先日も「知っておきたいお墓参り」というテーマの番組がありました。ちょっと興味があったので拝見しました。講師は墓石組合の偉い人でした。

冒頭「お墓の真意は?」を説くのかと思いきや、いきなりクイズ形式で進行して一抹の不安を覚えました。お墓の役割をじゅうぶん理解せずに作法に走ると必ず歪みが生じます。これは仏事全般にいえることなんですが……。

5つほどの問題があったと思います。中でも驚いたのが「霊園で他人の名前を記載している水桶を使ってもよいか?」という質問。答えはもちろん。当たり前ですよね、他人様の道具なのですから。作法やマナーではなく道徳の問題です( ̄。 ̄;)

つぎの問題が「墓石に水をかけたらそのままにしておいてよいか?」で、答えは×。墓石は女性の肌より敏感だから必ず拭き取るべし…だそうです。この理屈なら雨上がりには毎回タオル持参で墓地に行かねばなりません。私は女性の肌のほうが敏感だと思います(笑)

それから「お墓に供えた供物は持ち帰って食べてよいか?」という質問。根本、墓参は施餓鬼供養ですから、、食べるなんて言語道断、信じられない行為です。地域によっては飢餓で苦しんだ歴史から、食べて「鬼の子のように強くなれ」という異例もみられると云いますが、基本は持ち帰ったとしても食べません。本当は一晩そのままにして翌朝片付けるのが作法です。しかし番組では「先祖と食を共有する文化である」と言い切っていました。

こういうことが全国で放送されて、真に受ける人が出てくるわけです。よく生物の絶滅危惧を憂う話題がありますが、風習や作法は情報氾濫により一気にバランスを崩し、間違いが正統として拡がり始めます。信仰や仏事においては、決して東京が上位ではなく、東日本のほうが近年の歴史であることは認めなければならない事実です。1000年以上続く、奈良・京都を西日本の仏教儀礼文化こそが日本の真、安っぽい番組の屁理屈に流されてはいけません。

2014年7月27日日曜日

炊飯器にこだわっても悟れない

本日10時から高蔵寺『お不動さん』です。息災護摩の厳修と法話をいたします。今月は別名「土用護摩」とよび、酷暑の中での護摩は特に御利益があると云われています。ぜひお参りください。

悟りなんて急ぐものじゃないし、他人と比べるものじゃない。なのに、ちゃんとした入り口から学ぼうとせず、雑学で武装して好みだけをチョイスしてわかったような気になっている人が、最近多いような気がします。

先ずは自心を知ること、そして尊敬できる師匠に出会うこと。これは手元に針を打って、そこから糸をピーンと延ばしていく。そして「ここだ!」という所にもう1本、針を打って糸を結ぶ。この作業が自心と師匠の関係なのです。これを目印にしっかり学べば、少々迷っても悟れます。

こんな笑い話があります。ある男が電気屋で「一番美味しく炊ける炊飯器はどれだ?」と訊ねました。店員はあれこれ説明したうえで「これです」と一番高価な物を勧めました。男は「高すぎるよ。それなら良い米を買うほうが賢いぞ」と突っぱねました。すると店員は「大事なのは米ですよ。良い米ならどれで炊いても美味しいですよ」と笑いました。

方法や方便、統計ばかりに気を取られ、本来を見失う。お米=自心、店員=師匠です。大事なのは尊敬して素直に随うこと。理屈で悟れたためしなし。ご参考までに。

2014年7月24日木曜日

朝顔と寺子屋

父は朝顔作りの名人でした。今は老いて引退しましたが、あんどん、切り込み、大輪、水耕などあらゆる栽培方法で楽しませてくれました。その父の名言に「朝顔は50年やったと言っても、しょせん50回だから」というのがあります。モノゴトのチャレンジは無限のような錯覚を抱いていても、時間と季節との関係が不可欠で、こと植物はいくら作りたくても年ごとの栽培となるわけです。半年以上かけて仕込んでも、咲くのは一朝。昼前には萎んでしまうのです。

高蔵寺の『夏休みこども寺子屋』は平成10年から開校し、今年で16年目(途中1回休校)となりした。合計で15回、毎月の『こども寺子屋・サタデースクール』は300回を超える計算になります。毎回、特別変わったことをしているわけではありませんが、信仰と躾(しつけ)をテーマに背伸びをせずにやってきました。

去年まではしゃかりきにチラシを配布していましたが、今年はネットと最小限のご案内のみでもかかわらず、募集告知前から申込みが殺到し、例年の倍の子供たちが集まりました。申込みはFAXのみで、問合せは電話のみ。開校前々日には保護者においで頂き、修行衣を授与。親御さんからしてみれば、たった半日の開校では手間のかかることをお願いしました。それにも関わらず、すべての方がキチンと決まりに則って速やかに対応して下さいました。子供たちも、いっけん大人しい子ばかりかな?という印象でしたが、手のかかる子供はおらず、レベルの高いこぼんさん修行を体験できたと思います。

よく人は「昔の子供は……」と今を比較して大人しい現代っ子を卑下しますが、決してそれは鵜呑みできる意見ではなく、徐々に子供の意識も進化している。「今の親は……」と嘆くのもちょっと短絡的であり、メールなど簡易は人付き合いではないものを、発信元がちゃんとお願いすれば無責任なやりとりにはなりません。

父の言葉ではありませんが「寺子屋は15年やったと言っても、しょせん15回だから」、でも確実にその中で去年よりは大きな花を咲かせているような気がします。

2014年7月17日木曜日

鳴り物禁止と寺の鐘

今年は友人たちの子供が多数、高校野球に出場しています。そんな年齢になったのですね。赤ちゃんの頃から知っている子供たちが坊主頭でニキビ顔、汗を散らしながら全力で戦う姿には心を打たれてしまいます。

岡山県大会は県内の4球場で開催されていますが、うちから自転車で5分程度の場所にも球場があって賑やかな応援が繰り広げられています。しかし、今年は開催が始まってもシーンとしている。まだ一回戦だから応援が少ないのかと思っていたら「今大会から鳴り物禁止」となったそうです。私は学生時代ブラスバンド部でしたし、夏の風物詩としてあの応援が大好きで、境内にいても聞こえだすとワクワクしていました。それが今年から聞こえない……。ほかの球場は鳴り物OKでなのに、なんだか残念な気持ちでいっぱいです。

ここからは想像で書くので間違っているかもしれません。なぜ禁止になったのか? かなりの確率で想像できること……ひょっとしてご近所の苦情があったのかも。それならますます残念で複雑な気持ちになってしまいます。

現代では、お寺の鐘で「うるさい!」とクレームをつける人がいると云います。何百年来、鳴り続けているモノに対して、最近越してきた人が文句を言う。なんともやるせない気持ちになります。球場に関しては、あくまでも想像の域を出ませんので何とも申せませんが、ちょっと気になり記してしまいました。

事柄には順序があります。郷に入っては郷にしたがえ……少し強引に聞こえるかもしれませんが、少しばかり新参者のわがままがさまざまなバランスを乱しているような気がしてなりません。

2014年7月16日水曜日

善悪はいつも有耶無耶なのかも

私は良い悪いを判断するのが苦手です。曖昧だといわれても灰色決着でいいじゃんと思ってしまうタイプ。だから目くじら立てて騒ぎ立てる人は避けたくなるし、声を荒げて反対を主張する気にもなれません。

これは師匠に影響を受けているのだと思います。師匠は生前「一瞬でその人を判断するな。檀家は家三代を見よ!」と厳しかった。息子がダメでも孫で良くなることもあるし、祖父の代の栄華を孫が食い尽くすこともある。みんな、ヘソのつながった延長線上に存在しているんじゃ。それが口癖でした。だから私は短気なくせに、そこだけは長〜い目でモノゴトをとらえるようになったんだと思います。

今朝の出来事ですが、中学生の息子が学校に携帯を持ってくる友達の話題をしていました。持参は基本的に禁止。でもバレなきゃいい、てかほとんどバレない。バレるのは、周囲の密告からだと興奮気味に話してくれます。「そりゃ、悪いことは正義をもって注意するべきだから、密告する子は偉いねぇ」と言うと、「それがそうでもないんよ。そいつらも携帯電話を持っていなくて、持ってる子を妬んでチクるんだよ」と語尾を強めました。「禁止でもね、遠方の子もいるし、家の都合で持たないと不便な子もいるから、どっちが正義かわからん」と呆れ顔でした。

結局、人目があるから持っていても使えない。こうなると何がなんだかわからなくなってしまいます。善悪なんてこのレベルで、最終的には有耶無耶(ウヤムヤ)になることもよくあります。一瞬の正義が仇となることもありますし、最悪の事態が良薬になることもあります。また、表面的に立派でもその中に潜む嫌らしい下心が原動力となっていることもあります。答えなんてなくて、その瞬間のモノゴトの捉え方で一喜一憂しているだけなのかもしれません。


2014年7月15日火曜日

ハリネズミのジレンマ

家族が一斉にスマホに機種変更しました。私はガラケーとiPhoneを使い分けているので、設定や質問はすべてこちらの仕事です。これが……たいへんでした。ショップに入ったのが16時、帰ってきたのが22時を過ぎていました。そこから各種設定です。機種もバラバラであれやこれや目が回る作業の連続です。

いまやネットの世界では何重にもセキュリティが課せられ、我が身は自分で守らなければなりません。複雑さゆえに自分のページにさえ二度と入れない……なんてこともしばしばです。たいへんな時代になったものです。

私が最初に読んだ法話集には「ハリネズミのジレンマ」という例話がありました。とてもシンプルなお話ですが、今でも強烈な印象が残っています。周囲を疑い続けたネズミたちはドンドン自らの刺を増やして、けっきょく愛し合った者同士でさえ、触れ合うとお互いを傷つけてしまう。そんな内容でした。

便利という進歩は、ドンドン不自由にしているような気がします。同時に、扱う人のレベルによって凶器にさえなってしまいます。そしてまともに活用しようとしている人が「手間という被害」を被ってしまいます。本当の平和とは鍵をかけること防犯することではなく、鍵がなくてもお互いを信じ合える世界です。そんなの理想? といわれるかも知れません。でもそれはつい最近まで日本で見られた風景です。これ以上、ハリネズミにはなりたくないなぁと想う今日この頃です。

2014年7月13日日曜日

リアル昔話……5つの傾向

昔話にはよく、正直じいさんと意地悪じいさんが出てきます。ばあさんバージョンもあります(笑)日本話の面白いところは、登場場面ですでに、善悪のキャラクターがはっきりしています。そして最後までその逆転はありません。

坊さんの仕事は幅広い年齢層と接します。また、坊さんはいろんな世間話を耳にします。これは他の職業よりダントツで多いと思います。もちろん昔話のように最初から善悪がはっかりしない展開がほとんどです。しかし最後には明暗が分かれるエピソードが多い。激しい場合は、それが末期の場合だってあるわけです。

現実問題としては、それぞれのエピソードにほとんど正直者は出てきません。意地悪する人も出てきません。でも明暗が分かれちゃう。なぜだかわかりませんが、それぞれのエピソードを吟味してみると傾向ははっきり出てきます。

バッドエンドの人は、「わがまま」「おかげさまと言わない」「過去の悪いことをむしかえす」「人と比べる」、そして「二番煎じ」。この5つが絡んで善からぬ方向へ突き進んでいくようです。もちろんこれは私感です。でもちょっと身の回りをこの視線で調査してみてください。けっこう的を射ているかもしれません。ぜひともご報告を……お待ちしております。

2014年7月11日金曜日

頭が良すぎると結果がともなわない

勝敗にこだわって生きると根が生えてくるよ……と教わったことがあります。いつだったか記憶は定かではありませんが、中学生くらいだったと思います。いまだに時々、頭をよぎります。私はよく勝敗にこだわってしまうので、この金言は活かせていませんが、他人を見ると「なるほど!」と納得することもしばしば。客観的には理解できているようです(笑)

先日、プロ野球のナイターをラジオで聴いてたら、華々しく登場したルーキーたち(投手)の活躍を分析していました。才能があるのに結果が残せない選手、荒削りなのに大輪を咲かせる選手、調子が出てくると故障に悩む選手……。

元キャッチャーの解説者は最後に「頭が良すぎると結果がともなわない」と解説を括りました。試合中に考えすぎたり、過去の失敗を引っ張りすぎたり、自分なりにという修正をしたり、いつもまでも敗戦を恨んだり……。野球でいう「頭が良すぎる」ということは、根に持つことを指すのだそうです。

これって社会にも言えることだと思いませんか。

2014年7月10日木曜日

それだけのこと……に大きな感動

昨日の朝、1本の電話がありました。ふだん聞き慣れないお寺の住職さんからの電話。私からすれば大先輩。ドキドキしながら受話器をもちました。

「こうゆうさんですか? 突然ごめんなさい。昨日の講演は良かったですよ。お坊さんも何名がいらしたけれど、皆さん褒めておられましたよ。それだけなんですけど、これだけは伝えたくてね。これからも頑張ってください。」一昨日の民生委員会の講演のご感想、1分に満たない内容でしたが、跳び上がるほど嬉しかった。

それだけのこと……これがなかなか言えません。私自身も素直に感動を相手に伝えることはヘタクソです。「良かったよ」その一言は、助言や感想より心に残るものだと改めて感じました。お互い褒めましょうね、ちょっとだけでも。

2014年7月9日水曜日

知恵と智慧は違う

知恵と智慧は違います。仏教でこれを説くと「御仏の慈悲が……」なんて言葉が出てきて、よけいややこしく理解を遠ざけてしまうような気さえします。受けとめ方によっては、知恵は浅はかで智慧こそ有意義なものというような誤解も生まれてしまいます。

単純に噛みしめて素直に説明すると、知恵は知識とアイデアを融合させたもの。大きなことを動かすというより、些細なことを創意工夫してより良くすることをいいます。「ちょっとしたヒント」だと思ってもらって間違いではないと思います。この知恵を姑息に使ってしまうと、知恵の前に「悪」がついたり、「入れ」がついたり、あまり感心される結果にはなりません。

智慧は経験から沸き出るもの、、相手を深く想い、全体を把握して、大きな結果すべてを善い方向に収める力を指します。知恵をアイデアと説くなら、こちらの智慧はトータルデザインのようなイメージかも知れません。

知恵は良い悪いを選別して注ぎ込む、いわば小さなモノを完成させる工具、智慧はすべてを包括して大きなシステムをカタチにする工場。それは両方が不可欠だと覚えておきましょう。そして大事なのはどちらも使いこなすこと……これは経験(実践)を重ねるしかありません。机上の屁理屈では何も動かない。これを最も肝に銘じておくべきだと思います。

2014年7月8日火曜日

怒りの沸点概論

今日は午後から倉敷芸文館で講演をします。民生委員の大会です。あまり立つことのない大きな会場で今から楽しみです。

さて「怒りの沸点が低くてすぐに怒ってしまう」そんなお悩みをよく受けます。じっくり話を伺うとすごく興味深くて、こちらの質問にも徐々に声を荒げてきます。本当に カンシャク玉です。先日も電話で、墓地についての質問を受けました。境内の空き地は墓地になるのか?そんな質問でした。私は法要前でしたので、その旨をお断りして端的にご説明しました。しかし話は一方通行で、どんどん別の供養話に展開して支離滅裂。私は整理をして最初の疑問に戻り諭そうとしました。すると「ご住職は短気ですね!」と切られてしまいました。しばし唖然(・・;)

結局、怒るとなにが問題なのかを突き詰めると「冷静に解釈できない」「落ち着いて対処できない」という情況を招き、せっかくの結果も悪い方向に収まってしまう。もしくは良くない印象を与えて価値を下げてしまうことにあります。それはすごくもったいないことです。私の知り合いにもすぐに熱くなる人がいますが、その人についたキャッチフレーズが「正論が間違って聞こえる男」、傑作でしょう(笑)

相談というのは、ほとんどが質問にすでに答えが出ている場合が多くて、この相談にもちゃんと出ています。それは「怒りの沸点が低い」という部分です。これを本人が解っているのだから簡単です。沸点を高く設定するか、沸点が低い穏やかなの人間関係を気づけばよいだけのこと。感情を温度で診ることが出来ているなら簡単なことで、自分にとっての「適温」を探せばよいだけのことです。

ついでに説くなら、沸点が低いことの利点も見つめてみるべきです。沸点が高いことが必ずしも立派なことではないという角度から、低いから何が出来るのかを問うてみると面白い。もう少しつけ加えれば、自分の感情の温度が読めているなら、他人の温度も読めるでしょうから、いろいろ観察してみると沸点の活用法が見つかります。また、沸点が低い人に限って、他人には熱湯のような意見を投げかけて挑発したり、大事なところで冷たい水を差すような言動をとったり、けっきょく沸点が低いのは自分のエネルギーだけでなく、自分の蒔いた種で他人のエネルギーを増幅させて、高いカロリーを一気にとりこんでしまっているのです。

感情の沸点を観るときに役立つヒントは「自力」か「他力」かということです。穏やかな人は「自分のせい」、短気な人は「他人のせい」、この根本はかなり影響しています。温度は「自分のせい」と思えば下がり、「他人のせい」と思えば高騰します。それだけのこと……ちょっと冷静に分析してみてはいかがでしょうか。短気には無理かもしれませんが(笑)

2014年7月7日月曜日

反対の可能性もある

本日、朝10時より高蔵寺縁日『お薬師さん』の法要を勤めます。無病息災のお護摩と生活に役立つ法話をいたします。ぜひお運びくださいませ。

最近「可能性」という言葉が気になっています。「病気になる可能性」「災害に遭う可能性」など、あまり良い方向で使用されていない感じがするのです。そこがどうも気になります。

真言密教の教えを活用していくと、いつも常識とは真逆の解答が出てきてます。一見、天のじゃくでヘンコツな理屈に聞こえるのですが、そこにパッと光明が差し込んで解決に導かれます。

可能性も一点を見つめて危機感をあらわにするだけで訴えているものか……そんなことを思います。例えば「病気になる可能性」を口にしたとき、そのリスクと同時にメリットもあるのではないか。暴飲暴食でメタボになり肥満になる可能性をみた場合、その真逆には栄養がみなぎってこれまで以上のパワフルな活動が出来る可能性もあるのです。災害もそれによって被害が出るということは、その逆の利便を得ている可能性もあるでしょう。

弱点の裏に利点。片方ばかりみて嘆くのではなく、その裏で得ている素晴らしさについても光を当てると批判だけではない得策が生まれると思います。これはモノゴトだけではなく、人に対しても言えること。ダメな可能性ばかりをクローズアップして本来もっている素晴らしさを摘んでしまう必要はないのです。可能性という言葉を聞いたら、中心にコトガラを置き、キレイな円を描くイメージを持ってみてください。抱えている問題も案外、捨てたもんじゃない。大逆転の材料となり得るのですよ。

2014年7月6日日曜日

坊さんという職業

拝、ボーズ!!』更新しました。ぜひお聴き下さい。今回のゲストは『ボクは坊さん。』と著者・白川密成(みっせい)さんです。お四国札所の住職として、また作家としてご活躍の若者です。私より10歳若いのですが、祖父の跡を継いで住職になった境遇はよく似ています。

彼は「仏教をポップに伝えたい!」という情熱をもち、あらゆる角度からわかりやすく導けるようにと頑張っています。そんな彼とラジオの中で本音トークを繰り広げました。脱線しながら、それでも真意を出し合って、日本仏教の現状とそこに置かれた状況を確認することが出来ました。

後半、雑談の中で「けっきょく、ちょっと違う。ちょっと解らない。ちょっと不思議。そんな曖昧が坊さんの素晴らしさかも知れない」という結論が出たことは今回の大きな財産だったような気がします。

職業として明確にされることは素晴らしいことなのですが、社会の認知を高めようとしてもこれだけ多種多様な情況に置かれている職業は他にありません。平均がとれない職種だといえると思います。同時に、目に見えぬ世界を拝み、祈る仕事は信じる者の浅深いによって価値願がまるで違う。世の中はどんどん明確さを求め、坊さんもそれに応えようともがいている現状。上記の言葉は現場の素直な感想なのです。無意識に肩の力がちょっと抜けました。いつのまにそんなに力んでいたのだろう……不思議なくらいに。

2014年7月5日土曜日

間違った道案内

古書店で見つけた、とある昔のエッセイ集から。

都会の地下街で道を訊ねているおばあさんを見かけました。訊かれたおじさんは身振り手振りで親切丁寧に教えてあげていました。私は横で微笑ましいなぁと見守っていました。

しかししばらくして、おばあさんの行きたい所とおじさんの教えている所はぜんぜん逆方向ではないかと気づきました。声をかけようとしたら、すでに2人は動き出していました。後から追いかけましたが、けっこうな早足でどんどん歩を進め、なかなか追いつきません。

おじさんは長い動く歩道(エスカレーターのような)におばあさんを乗せて見送っていました。すると、しばらくしておじさんは急に走り出し、動く歩道と併走しだしました。そうです、おじさんも間違いに気づいたのです。おばあさんは慌てて逆向きの歩道に乗ろうとしましたが、どうすることもできず、反対方向へ流されていきました。

人は他人を信じ助けを求めます。人は喜んでいただこうと他人に手を差し伸べます。その志は素晴らしくても、根本が間違っていれば到達する場所も人も異なります。また訊ねる人も見る目を養わなければ、希望とはまったく異なる方向へ進んでしまいます。人生においても同じことが言えると思います。

2014年7月4日金曜日

寺子屋で親が育つ理由

今、お寺では『夏休み一日こども寺子屋」を受け付けています。今年はどうしたわけか、告知前からの問合せも多くて順調に参加者が増えています。

内容はこぼんさん衣装をつけて、半日のお寺修行を味わってもらうという、宿泊もなければ、派手さもなしといういたってシンプルな寺行事です。なのに毎年、なぜか人気があります(笑い)

他でやっている寺子屋と少し違うのは保護者との接し方かも知れません。「ぜひおいでください!」とこちらがアピールするより、「参加させてください!」とあちらからお願いに上がる発心(ほっしん)を大事にしています。これは高飛車にやっているのではなく、あくまでも「修行」というくくりから生まれたシステム。こちらが媚を売って指導するのではなく、決まりを守れぬ子供にはお引き取り願うこともないとは言えません。

またメールのやりとりは極力さけて、申込みはファックスか持参のみ、問合せは電話か来山のみ、前日(指定日)に保護者が衣(こぼんさん衣装)と資料を取りに来る。特別な事情はべつにして原則、これを約束してもらっています。

世の中、便利になりました。便利になると不作法も増えてきます。大事なのは足を運び、顔を合わせることです。それは子供にかぎったことではありません。子供とは半日の付き合いですが、その前に保護者との繋がりを明確にしておく。ファックスの文字、電話の応対、寺への参り方……そこから『こども寺子屋』は始まっています。

2014年7月3日木曜日

合わせて頂くことも大切

なかなか更新できなくてごめんなさい。

日曜日、高野山へ日帰り参拝をしてきました。人をお連れして、ゆっくりお参りするのは3年ぶりでした。久々の祖山は、来年の開創行事をひかえ、世界遺産も手伝って、世界からの観光客でたいへん賑わっていました。

そのせいで参拝者が減ったと嘆く声も聞かれますが、私のみるかぎりでは「お互いのバランスがよい」という印象を受けました。ときどき話題になる「観光客は不作法だ」という見方もちょっと違うような気がします。文化の違う諸外国からも大勢訪れているのですから、それは仕方ないことでしょう。

それより大事なのはサービスとしての進化をしつつ、これまでの参拝者が堂々と作法や行儀を示して導いて差し上げることが大事だと思います。日本の諺には「郷に入れば郷に従え」というものがありますが、郷がしっかりしていれば、そこには「厳」が生まれます。厳とは、厳しくするという単純な意味ではなく、その空間が緊張と崇拝で引き締まっていて凛としたようすを云います。この精神でここまでの歴史が保たれてきたのです。外国の方々も自分たちに合わせた観光地ではなく、1200年つづく修行の道場を味わいたくいらっしゃっているのです。これまでの参拝者が背中でそれを伝えるべきだと思います。

合わせることは大事ですが、合わせて頂くことも大切です。僧侶はそこに着目して、俗に降りることだけに終始せず、蓮座(菩薩のステージ)に引き上げる意識をもって導くべきだと改めて強く感じる旅となりました。