2014年9月29日月曜日

「ほうれんそう」なんて要らない

いろいろやります。よく「檀家じゃなくても大丈夫ですか?」と訊かれます。檀家行事は別に勤めています。どなたでもご参加になれます。おいでください。
◎小林啓子ライヴin萌
  ・日 時 10月3日(金)20時〜
  ・場 所 笠岡カフェド萌 (岡山県)
  ・ゲスト 天野こうゆう
◎うたかたりinやかげ
  ・日 時 10月4日(土)13時半〜
  ・場 所 やかげ文化センター(岡山県)
◎天野こうゆう法話会〜智慧の風
  ・日 時 10月5日(日)14時〜
  ・場 所 早島茶房いかしの舎 (岡山県)
◎抜苦与楽番外編・夜のうたかたり
  ・日 時 10月5日(日)19時半〜
  ・場 所 倉敷KappaRecords (岡山県)
◎高蔵寺秋の大祭・施薬祭
  ・日 時 10月26日(日)14時〜
  ・場 所 医王山高蔵寺 (岡山県)
◎うたかたりin瑞雲寺
  ・日 時 11月3日(祝)16時半〜
  ・場 所 瑞雲寺(愛知県)
小林啓子ライヴin鎌倉  ・日 時 11月15日(日)16時〜
  ・場 所 鎌倉歐林洞ギャラリーサロン (神奈川県) 
また、今日から新しい番組が始まります。その名も『ぶっちゃけ寺』。岡山は週遅れですが、ぜひご覧ください。

さて最近は、企業研修なる会への講演も増えつつあります。お寺での法話会はめっきり少なくなりました。残念なことです。そのぶん企業は熱心でどんどんテーマを与えくれます。しかし密教の立場から説きますと、これが真逆になることもしばしばです。

たとえば、企業でよく使う「ほう(報告)・れん(連絡)・そう(相談)」。これを使って法話を考えるとなぜか行き詰まるんです。それでこのことを頭において法要のお手伝いをしてみました。私の役は「奉行・ぶぎょう」といい、全体を見渡して式を執行しながら、さまざまな部署へ指示を出すという仕事。年齢的には中堅が受け持つ役回りです。

しっかりと準備をして、綿密に打ち合わせて、適材適所に配役をしていきます。法要は一度始まってしまうと無言となります。気づくと「ほうれんそう」のどれも出来ない(笑)誰も報告してくれませんし、連絡もなし、相談なんて始まってからでは遅いのです。要は全員が語らずしても動けるところまで修練しているから、荘厳な古式法要が無事に営めるのです。

常識って真逆から見ると、意外と必要のない、型にはまった障害物なのかも知れません。メジャーな通説は崇拝され、何も疑問を持たず盲信しちゃうと逆に危険なのではないか?会社でそれを取り除いたら運営が止まるのか?それで止まるくらいの社員なら、まだまだ実践では使えないという見方もアリでしょう。

2014年9月17日水曜日

檀家塾で学ぶ、総括!日本の葬送儀礼

先週の日曜日、『檀家塾』なる新しい企画を開催しました。これまで様々な企画をやってきましたが、意外にも檀家限定(檀家とそれを希望する家)のみというのは初めての試みでした。お盆から声がけをして当初2名しか申込みがないという滑り出しで焦りましたが、蓋を開けてみれば大盛況でした。

塾の内容はテーマに沿って展開します。今回は「葬儀」。いきなり暗くなる内容ですが、ここで本儀を知って頂くことによって、生きること、そして檀家としての在り方に気づいてもらいたいという願いを込めました。葬儀の歴史、宗派ごとの違い、昨今の変化、戒名の意味、日本仏教の誤解など、寺院の変遷と共に講義をしました。

一度では理解できないかも……というお声もありましたが、それはそれで良いと開き直って進行しました。み教えとは、どこかに一つ、なにかが引っかかればそこからグイッと芽を出すものだと思います。そういった意味から「檀家塾」は、作物に喩えるなら開墾と種まきの繰り返し。そんなことを改めて実感しました。

塾の総括として「日本人にとって葬儀とは?」を語りたかった。新しいとされるさまざまな供養(※あえて供養と記しますが、本儀に則っていないため、本来なら処理法と表現したほうが正しい)、散骨や家族葬、僧侶を必要としない直葬など、死にまつわる儀礼は混沌としています。檀家の中には、これまでの葬儀が無意味だったのか?と疑問に頭を抱える人もいますし、遺言によって束縛されて、異端な供養方法を推し進めなければならなくなったケースもあります。しかし、あえて日本独自の葬送儀礼が脈々と今日まで伝わってきたのか。ここを明確にせず、理想ばかりをボンヤリ説いてきたからこそ、日本仏教を葬式仏教などと揶揄され続けているのでしょう。

今回は開校前からあらゆる書籍や言葉を探しましたが、コレ!と言ったものが見つからずずいぶん悩みました。もうここまで出ているのに……この作業は本当に難産でした。そして前夜、たまたま別件で開いた本の中に言わんとしている内容が明確に記述されていて光明が差しました。我が高野山の後輩・蝉丸P師の著作『蝉丸Pのつれづれ仏教講座』(p.174)からの引用です。参考までに記しておきます。

葬送儀礼なんてものは、とっくの昔に廃れている風習であるにもかかわらず、今に至るまで続いてきたのには、「意味」と「実利」があったればこその話です。(中略)「死者への感謝と哀悼を捧げつつ、キッチリと決別するという側面と、ちゃんとした儀礼に則って見送るということによって、心的負担の軽減を図り、安心感を担保してくれる上に、聴聞や挨拶など社会的な義理を一本化してくれるモノ」です。

2014年9月11日木曜日

バチの正体について考えてみる

このところ「バチ」について考えさせられることが多く、早くまとめておこうと思いながらなかなかうまくいきません。覚書という括りで気楽に記しておきます。

よくバチを太鼓に喩えて「叩かぬ者には当たらぬ」と云います。これは日頃、信仰のない人にはバチさえも当たらない。力一杯、太鼓を叩く(これを信仰と比喩)とその跳ね返りが身体に当たって痛い目にあう。このようすをバチ当たりだという説があります。そこから「信仰によって調子に乗ってはならぬ」と戒めたのでしょう。

また神仏のどちらがバチを当てるのか? と問う人もいます。これは神(天部)に限定するという説があります。如来・菩薩・明王、いわゆる仏界はその感情を離れた世界であり、神のいる天界は感情の残っている世界。そのことから、バチは神が当てるという説もあります。ここで間違ってはいけないのは、どちらが偉いというものではなく、両者があって初めて人は素直に従う(信じる)のだということ。これは入学当初、ビシバシ厳しい先生にしごかれてこそ、温厚な教師の教えに入ることが出来る……そんなイメージでよいかと思います。

さて最近想うところ、それ以外でも「バチは存在するのではないか?」ということです。バチの発端はよくわからなくても「ひょっとしてバチかも?」と思い込んだり、「バチが当たったんじゃ!」と他人に指摘されると妙に気にしてしまう。一瞬にして倍速走馬燈のスイッチが入り、あれこれ過去を詮索してその原因を大きくしてバチを省みる。一度それに陥ると次々とおこるバチ(らしき出来事)に振り回されてしまう。お寺に相談なされる人はこの類いが誠に多いような気がします。

そこで慌てて「信仰」を持とうとする。太鼓に喩えるなら、事がおきてからバチを握り叩き始めるようなもの。せっかくの善行を自らの悪行消しゴムとして懸命に懺悔する。要は「心当たり」こそがバチの正体。これを如何に作らず日々を過ごすか。自分だけでなく「アイツなら仕方ないよ」などと、周囲に言わせない三密行(行い、ことば、心持ちを高い次元で清く1つに保つ)を意識する。私にとっての「バチ」ってなんぞや?少し考えてみると生活に変化が出てくると思います。ご参考までに。

2014年9月9日火曜日

本気で強くなれ!

先日、取材で目の前で少林寺拳法の実演を拝見しました。凛とした道場に無駄のない道着、張り詰めた攻防に興奮とは違う上品な熱きものを感じました。

少林寺拳法はお互いを高め合うための武道であり、勝敗にこだわるものではない。信頼と高い技術と精神を切磋琢磨(ぶつけ合うという表現のほうが正しいかも)ための修行だと改めて知ることができました。本当に素晴らしいです。その模様は今日の『もんぜんまっぷ』(エブリのまち15:30〜)でオンエアされる予定です。

ナマクラな者同士がいくら競い合っても、根本が緩ければジャレ合いにすぎません。日替わり定職のごとく信念を変え、目先に食いつき、浮き草のように流行りに流されていると一瞬に人生は終わります。

真言宗では空海さまを「遍照金剛:へんじょうこんごう」とお呼びします。これは空海さまの灌頂名(師から授かった法名)です。一般的に意味は「堅固な意志で遍く照らす立場となれ」と説きますが、実は最高に固い金剛石(ダイアモンド)を輝かせるには、自分と同等、もしくはそれ以上の固いモノを本気でぶつかり合い、命がけで磨きをかけることを指すのです。世間では「本気」を履き違えた個人差をひけらかして論じ合いますが、そんな次元では道ばたの石ころさえも弱音の元凶となってしまう。本気で強くなることを意識したいものですね。

2014年9月7日日曜日

拝んでいるなら出来るでしょう

本日は高蔵寺本尊縁日『お薬師さん』です。お護摩と法話を勤めます。いつもは10時ですが、今日のみ11時からの開始となります。お間違えないようにお願いいたします。

昨日に続きを少々。土を捻って「仏さま」を作り上げる場合、その人がこれまでどれだけ拝んできたかということが「あからさま」になります。一言にお地蔵さんと言ってもさまざまなお姿があるわけです。語るだけなら想像を巡らせてしのげば良いのですが、形にするとなるとそうはいかない。如何に拝してきたか。拝するとはしっかり見つめて観想してきたかということの現れなのです。

毎日拝んでいます! と声高らかに言ったとしても、そのお姿が描けなかったり、作り出せないのなら、何を拝んでいるのですか? と問われても仕方ないのです。以前、少し生意気な後輩坊さんたちに仏画を指導する機会がありました。そのときのテーマは「自分のご本尊を描く」でした。開始早々、挙手の嵐。その質問はすべて「どんなお姿でしたっけ?」で苦笑いした思い出があります。

密教には観察という言葉がよく登場します。「妙観察智・みょうかんざっち」という言葉もあります。これは絶対的客観視から得る智慧のこと。わかりやすく説けば、私感を入れずに微細にわたるまで観て、自心に焼き付けて自在に活用することです。先に形だけを受け入れても無駄のように言う人もいますが、形を最大限とりこんで自身のモノとしてしまえば、そのアレンジは自在となって、そこから滲み出る心まで読み取ることが出来る。

密教の「拝む」とはそこまでの境地を指します。1つのことに突き詰めて凝ることを「オタク」だなんて揶揄する風潮がありますが、極限を超えた観察眼をもてば菩薩に成れる。平均と流行りに追われ、上辺を学ぶことしかしないほうが立派に映る流れこそ、凡夫のあふれる世間だと思います。

2014年9月6日土曜日

導くにはやって魅せるしかない

9月中旬から秋の行事が目白押しです。

◎くらしき仏教カフェ
  ・日 時 9月21日(日)15時〜
  ・場 所 夢空間はしまや (岡山県)
◎抜苦与楽〜夜の法話会
  ・日 時 9月21日(日)19時半〜
  ・場 所 倉敷KappaRecords (岡山県)
◎高野山塾
  ・日 時 9月23日(祝)14時〜
  ・場 所 ニューロカフェ吉祥寺(東京)
◎小林啓子ライヴin萌
  ・日 時 10月3日(金)20時〜
  ・場 所 笠岡カフェド萌 (岡山県)
  ・ゲスト 天野こうゆう
◎うたかたりinやかげ
  ・日 時 10月4日(土)13時半〜
  ・場 所 やかげ文化センター(岡山県)
◎天野こうゆう法話会〜智慧の風
  ・日 時 10月5日(日)14時〜
  ・場 所 早島茶房いかしの舎 (岡山県)
◎抜苦与楽番外編・夜のうたかたり
  ・日 時 10月5日(日)19時半〜
  ・場 所 倉敷KappaRecords (岡山県)
◎高蔵寺秋の大祭・施薬祭
  ・日 時 10月26日(日)14時〜
  ・場 所 医王山高蔵寺 (岡山県)
◎うたかたりin瑞雲寺
  ・日 時 11月3日(祝)16時半〜
  ・場 所 瑞雲寺(愛知県)
小林啓子ライヴin鎌倉  ・日 時 11月15日(日)16時〜
  ・場 所 鎌倉歐林洞ギャラリーサロン (神奈川県) 

詳細は追ってお知らせしますが、怒濤のスケジュールとなりました。同じような繰り返しに見えますが、すべて演出が異なりますので、常連さんも初めてのお客さんの楽しめるかと存じます。どうぞご期待ください。

さて、盆明けから、製作や講演、葬儀にと息つく間もなく、多忙な毎日を送っています。水行の水温で秋を感じるこの頃です。

最近では、私の作る仏さま(陶芸)教室が人気で出張講座に出かけます。子供からお年寄りまで、土を触ると童心に還るようでたいへん人気があります。だいたい約2時間の講義で、最初の30分は法話と説明を行います。教壇から見渡すと熱心に聴く人と「早くやらせろ!」と言わんばかりの人に分かれます。別にじらしているわけではないのですが、性格が如実に現れ、その顛末も見えてきます。急ぐ人は質問と愚痴が多い。まず人の話を聞かない。そして材料や道具、場所のせいにし始めます。挙げ句「やりたくなかった」とぼやきます。土をひねってくれれば良いのですが、理屈をひと捻りして手が動かない者ばかり。

先日もある講義がありました。席に着くなり、主催者の意に反して言いたい放題です。まだ開始前の話です。「子供だましか」「幼稚園のころを思い出す」「手が汚れる」「神通力で作ってみせる」と口々に愚言を吐き、指示も待たず材料を触り出しました。そんな状況では、もちろん説明も法話も聞いてもらえません。だからといって怒鳴りあげることも出来ない。さてどうするか。

そんな時は、完成品を見せてから存分に好きに作ってもらう。あーでもない、こーでもないとやり始めます。子供でも出来ると豪語していた大人たちは懸命に土にたわむれます。私はしばし傍観者です。ある程度進むと、一斉に手が止まり「出来ない…」と助けを求めてきます。そこで一度、手を止めてもらい、その目の前で一気に作って魅せます。すると「おぉ〜〜」とため息が漏れ、その後は一切、四の五の言わなくなります。

山本五十六さんではありませんが、教えるという場面においては「やってみせる」しかないのです。「いつもはやれるけど、ここでは魅せることが出来ない」なら講師にはなれません。どんな状況でも完成させる。そして簡単な物こそ完成は難しいことを目で味わって頂く。すると自ら学び始めるのです。講師を務めると、見る目以上に聞く耳は大事だと気づかされます。