2014年10月26日日曜日

2つ返事でため息は生まれない

本日は高蔵寺秋の大祭『施薬祭・せやくさい』です。お護摩や大般若転読、法話、芸能奉納など盛りだくさんのお祭です。美味しい中華粥のお接待や、住職手作りの土ほとけのお授けもあります。午後2時から厳修します。ぜひお運びください。

さて今朝は子供の話題です。寺子屋(毎月第2、4土曜開校)で子供と接しているとこちらも元気をもらえます。これが大人だと一緒にため息をつくことすらある。この違いはなんでしょうか?

2つ返事という言葉があります。「やってみるか?」「ぜひぜひやってみよう!」会話で表すとこんなノリでしょう。子供にはこの勢いがあります。大人はそこが慎重です。やってみなけりゃわからない。失敗も楽しんじゃう。子供にはその勢いがあります。もしお子さんにこの勢いが失せてきたら、そこはなんとか保つ努力をしてあげたいと私は思っています。

昨日の寺子屋はバルーンで遊びました。細長い風船で何かを作ろうと盛り上がりました。1人の男の子が犬を作るとみんなが真似して犬だらけになりました(笑)そのうちに犬に飽きて、鉄砲とか剣を作り始めました。女の子が自慢げに何かを作り始めました。みんなは興味津々で囲んで彼女を見守りました。

その時です。バーン!もの凄い音を風船は割れてしまいました。女の子はしばし呆然。驚きと恐怖、そして情けなさで今にも泣きそうな表情になりました。すると周りの子供たちが「あー、びっくりした!」と笑い始めました。すると風船の残骸を集めた子が「これ変なカタチじゃぁー!」と言い出しました。その場は一気に笑い声で包まれて女の子も元気になりました。

ミスや失敗もこんな単純な連鎖で救われる場面が数多くあるのではないでしょうか。大人になるも余分の風船まで割って、騒ぎを大きくしているような気がしてなりません。子供に学ぶことはまだまだたくさんありますね。

2014年10月24日金曜日

受話器にてたった8分の説法

カレンダー原画の製作に追われた昨日の午後。夕方、1人で留守番をしながらデータの最終チェックをしていました。そこへ1本の電話。「和尚さん?」と聞き慣れた檀家の奥さまの声でした。「いや〜、おってくれてホッとしたわ」と明るく相談を切り出されました。

「うちの仏壇にはたくさんのお位牌があってね、50年以上経ったものは一つにまとめたいんよ。よう拝んでもらってから繰り出し位牌に入れたいから、戒名板(木の板)に書いてもらえる?」という内容でした。このような相談は日常茶飯事で、うちとしては別に間違った方法でもないので快諾すれば済むことなんですが、ここからが大切な説法になります。

住職:なぜに?
檀家:たくさんあり過ぎるから
住職:少なくすればどうなるの?
檀家:スッキリするかなぁと思って。
住職:見た目?心?どっち?
檀家:う〜ん、見た目かな。
住職:心は?
檀家:微妙……だからご相談している(笑)
住職:お位牌はシンボルだし、その人の存在を示す唯一のカタチよ。
   だからまとめてスッキリするという気持ちの前に
   たくさんに見守ってもらえてるという気持ちもないかなぁ。
檀家:………。
   実は周囲がそういうことを勧めるから、つい………。
住職:50年以上のお位牌の中には100年以上のモノもあるでしょ?
   あれは今から作れないし、それだけの先祖がいたご家庭も少ないよ。
檀家:……ですよね。
住職:まとめるお手伝いはいつでもするので、しばらく手を合わせてみたら?
檀家:はい、そうします。
住職:娘さんも年頃だし、ご婚約の時には両家の仏壇は不可欠ですよ。
   もちろん祀らない家も多いけど、そこはね……、
檀家:そうなんです!私も嫁いだときに
   ここは歴史ある立派な家だなぁと思った記憶があります。
   それって大事ですよね!
住職:そういう価値観の家同士もあるってこと。
   檀家にだから説けるお話よ。
檀家:ちょっと弱気になっていました。ありがとうございました。

電話を切り、時計をみると約8分の会話時間。たった8分の会話……それでもお互いホッとした爽やかな気持ち。めでたし、めでたしです。この奥さんとは短時間でもわかり合えるし、別の答えを求めていることも手に取るようにわかる。だからこれだけの会話でも「安心」をお授けできる。これは檀家と菩提寺の信頼があるからこそ成せる技。永年培ってきたお互いの土壌が同じだからこその信頼があってこそ。

日本の仏教にはこのような繋がりがあって成り立っていることを忘れてはなりません。「うちはお寺と縁がなくて……」よくこう切り出す人がいますが、最初から縁がない家なんてない。いつの時代か誰から縁が途絶えたのか? まずそこを見直す必要があると思います。昨今の「お坊さんへの質問」は、この信頼なき状態から突然に訊ねてくる人が増えました。自分の土壌は未開拓のくせに本質を知ろうとする。挙げ句、あちこちにたくさんのお坊さんに答えを求めて取捨選択で1つの道を選ぼうとする。それは解釈ではなく、ただただ納得という解答を得たいだけ。これで「み教え」が身につくと思うとは大間違いだと認識すべきです。

(ご注意:日々、多くの相談や質問がきますが、お顔の見えない人(檀家外)には一切答えていません。あらかじめご了承くださいませ。)


2014年10月23日木曜日

0に越したことはない…世界に生きる

昨日は消防署が主催する講習会に講師として招かれました。今回は「予防広報」という部署の方々に「心をつかむ話し方」という題名でお話しさせて頂きました。予防広報とは、起こりうる災害に対しての予防……先にそれぞれが出来る対策を流布すること任務だそうです。

ふと考えると、消防も警察も医者も「何かあったら儲かる」という仕事ではありません。0(ないこと)を祈りながら、万が一に備えて下さる立場です。ですから、日々さまざま工夫で私たちに「万が一」の予防と対応を教えて下さっています。しかし私たちは、それをなかなか素直に受けとめず、我欲に溺れて生きています。

消防なら「火が出そうな場所を減らし、整理整頓をなさっていざという時に」と教えて下さいますし、医者なら「常日ごろ適度な運動をして体調管理をするように」と指導下さいます。でもやらない。やりたくない。これが私たちの弱いところです。

今回の講習で気づいたことは、いかに幼い時にこのようなことを叩き込んでおくことが重要かということ。行者の世界でいう「修行=習慣づけ」の世界。やっておかないと気持ち悪いと思わせる習慣づけ。素直なうちに常識をすり込んでいないといざという時に役に立たない。

先日、小学1年生の我が家のチビは、学校で行った避難訓練を真剣に話してくれました。目をキラキラ輝かせながら……。これが中学生の兄ちゃんになるとクールなんです。「やらされているから仕方ない」という意識が勝っているんです。その差です。ここに教育の意味が凝縮されているのです。

修行も、朝起きないといけない。掃除をしないといけない。拝まないといけない。私が15歳で入門したとき、教官は「遅いな」とおっしゃった。本来はもっと早く入門しなければいけない世界だと思い知らされました。先代は6歳はだった云います。それが今、ようやくわかってきました。防災も予防もすべてはそこに答えがあるのです。

前述の話題に戻ります。この講習で一番驚かれたのは「坊さんも予防を心掛けている」というテーマでお話しした時でした。その内容とは「坊さんは葬儀を待っているわけではない。住職在任期間中は1名も亡くならないように祈るのが仕事」いうものでした。坊さんは葬儀で儲けている……これが凡夫の解釈です。でも火事も、病気も、事件も、事故も喜ばない立場と同じ。0に越したことはない……世界に生きているのです。




それが証拠に「私のお寺のご本尊は薬師如来さま」です。健康を保ち、病気になれば平癒し、日々の平穏を願う仏さまに仕えているのです。そこで死を待つのはナンセンスまだまだその認識は薄くて苦労をしているわけです。そんなことを知って頂こうと、この日曜日に大祭を催します。ぜひご参加下さいませ。

2014年10月22日水曜日

黄金の田んぼを見て想うこと

この時期の田んぼを見ていると黄金色でたいへん美しく、刈り取ったあとの稲わらの匂いも心を和ませてくれます。一方、休田地は雑草が生い茂り、周囲の見通しも悪くしています。

空海さまは「春の種を下さずんば秋の実いかんが獲ん(春に種を蒔かずして、秋にどうして収穫を獲ることができようか)」とおっしゃっています。やった者にだけ実はみのるのです。それもデタラメな時期ではいけません。摂理に従った見識と精進によって実は成るのです。自分のことは置いておいて、他人様を先に「どうぞ」と譲る。誠に立派に聞こえますが得てして、苦手は相手から…お得は自分からという我欲もよく見受けられます。それではいけません。

そして気づかねばならないのは、休田地を本来の農耕地に戻すには何十年も掛かるということ。今日やって明日はお休み……といったムラのある精進では、なかなか実りある収穫を獲ることは難しいのです。「今日から始める」が苦手な人は「今日だけを続ける」という意欲を掲げてみてはいかがでしょうか。

2014年10月21日火曜日

本当とウソの境界線なんてない

正直を勘違いしている場面によく出くわします。ぶっちゃけ、ざっくばらん、ここだけの話……この語句で何もかも口にするからややこしい。黙っていればいいのです。でも黙っておけないから、知らない努力をすることも肝心なのです。

画家のミレーでしたか(ちょっと失念…また詳しく記述します)、売れない時期があって友人のほうが先に有名になってしまった。友人は彼の才能を高く評価していたのですが、なかなか芽が出ない。友人はどんどん都会で大成功を収めていく。ある日、友人が彼のアトリエを訪ねたら、真冬だというのに暖炉に火が着いていなかった。薪を買うお金がなかったのです。友人は「私の知人が君の作品を欲しがっている。セレクトは任せてもらったから、この作品を分けて欲しいんだ」といい、1枚の作品を大金で引き取ってくれました。そこから彼はドンドン頭角を現して有名になりました。後日、その友人の家を訪ねるとその絵が飾ってありました。お互いニッコリと微笑んで「よかったね」「ありがとう」と抱き合ったと云います。

どこからどこまで本当で、そしてどれがウソなのか。そんなことはわかりません。しかし親友同士の許容の中で心地よく生かし合っているからこそ、余分なセリフは必要としなかったのでしょう。

なぜそこで要らぬことを言う?
いまその本音が必要か?

失敗はすべてそこから生まれています。それは「正直」とはちょっと違い次元の悲しいセンスだと思います。知らせないのも思いやり……知ることが全てではないことに気づく。「融通」、これも悟りの1つでしょうね。

2014年10月18日土曜日

一会話一感動

昨日、馴染みの炉端焼きのお店に行きました。東京からのお客さんの接待です。ここは若い頃からお世話になっている老舗です。カウンターにつくなり、早めの賄いをとっていた奥さんに声をかけられました。

「あんた、この間テレビに出とったなぁ。深夜のヤツよ。何気なく坊さんがぎょうさん出とるわぁと思ってぼんやり観とったら、15歳の男の子が喪主をやったっていう話を聞いて涙が止まらんかったんよぅ。よう観たらアンタが喋りょうるが!たまにゃぁ、ここでもそんなエエ話せられぇ」と肩をパチン。(セリフのリアリティを保つため、倉敷弁で表記しています)

テレビ朝日の『お坊さんバラエティ・ぶっちゃけ寺』。初回から2週連続で出演しました。坊さんが芸人と絡むということは前代未聞だとメディアもずいぶん賑やかで、放送当初からネットを中心に大騒ぎ、お坊さん業界も喧々諤々、私の耳にも賛否両論が飛び込んできて正直疲れ果てました。

でも「きっかけ」としてはあのようなスタイルありでしょうし、そんな話題からお坊さんへの馴染みも生まれると思います。もちろん芸人の学習度、スタッフの謙虚さ、あくまでも「お坊さん」をオモチャとして扱わないというスタンスは堅持してもらわないと長続きはしないと思います。イメージを壊すことではなく、イメージを膨らませること。この奥さんのような感想は素直に喜ぶことでしょう。雑談でしんみりする…ハッとしたりホッとしたり、暴露ではなく披露という感覚を大切に「一会話一感動」を意識せよ、とは師匠の言葉です。

2014年10月13日月曜日

五十回忌に想うこと

親父の五十回忌ぐらいは家でと思うてなぁ……法事前、私の父と同世代の施主さんは目を細めてこうおっしゃった。近ごろでは自宅の法事がめっきり減ったので、なんだか懐かしい気持ちでお勤めができました。

五十回忌とは「亡くなってから49年目に行う法要」です。50歳の誕生日でさえ、なかなか祝ってもらえないのに、亡くなってから親族が集まって供養を行う。若い時からその度に不思議な気持ちになったものです。

私が高野山に上がると決心した15歳の夏、明治生まれの祖父(師匠)は毎朝勤行のときに「お前が今死んだら何人が悲しんでかけつけてくれるか?」を問うてきました。必至に数えてちょいと多めに答えると「なんじゃそんだけか?生き方に問題あるのう」と突き放されたものです。

「ええか、死んだらよほど優秀な幽霊にでもならん限り、お前のことなんぞ誰も思い出してくれんぞ。そのためには今を、生きるを、ちゃんと意識するんじゃ。坊主はなぁ、五十回忌を勤める立場。その場にいる人はみんな菩薩じゃよ」毎朝の質問のオチはこんな言葉でした。今でもよく思い出す言葉です。

2014年10月12日日曜日

こども寺子屋〜理由があるから続いている

当山の『こども寺子屋・サタデースクール』は相も変わらずマイペースで隔週土曜日に開校しています。朝7〜8時のたった1時間。特別なことはなく、お勤め、作務(そうじ)、法話のひたすら繰り返しです。周囲には「まだやっていたの?」と驚かれることもしばしばです。関係ない者にとってはその程度でしょう。それでも20年続いています。

昨日も開かれました。季節は秋から冬に変わろうとしています。境内には落ち葉が目立ち始めました。開校前、箒でそれを拾い集めていると続々と子供たちがやってきました。それぞれ箒をもち手伝ってくれました。そして7時を迎え、手を洗い、お勤めをしました。

この日は後に法事を控えていました。だから少し短縮で進めました。子供の1人が「なにがあるん?」と訊くので、「今日は大勢の人が来る法事じゃ」と答えました。「そういえば、サタデー(子供たちは寺子屋のことをこう呼ぶ)にきていた兄ちゃんも来るんよ」と付け加えますと、「ほんなら箒でキレイにしとこう」と言ってくれて、みんな一列になって境内にキレイな「箒目・ほうきめ」をつけてくれました。箒目とは、境内の土に波のような模様を残すことです。とてもキレイです。いつもは境内で遊んで帰る子供たちも墨のほうを歩き、駐車場でボール遊びをして帰っていきました。

よく「寺子屋の必要性」みたいな難しいインタビューを受けますが、そんな大それたことはわかりません。ただ続けていると、繋がりが生まれて、流れが出来て、自然となっていくのだなぁと感心させられる場面に出会うことが出来ます。それだけです。「まだやっていたの?」と問われれば「はい、まだやっています」と答えるだけです。続けることに理由がつくのではなく、理由があるから続いているのです。