2015年3月26日木曜日

『CGとリアルの差と先祖』

サイコロの裏という話がラジオから聞こえてきました。哲学の解説だったと思います。「6の裏は1」これは小学生でも知っています。絵に描いた「サイコロの6」は6であり、裏の1までを考えて表現をしません。だからそれは虚実である。そんな内容でした。

面白かったのは、そこからCG(コンピューターグラフィック)の話題になり、人間は感性をもって瞬時に本物かCGかを見破ることが出来るのだそうです。あの特撮映画『ゴジラ』も着ぐるみのほうが人気が高いのだとか。計算し尽くされたCGより、着ぐるみのリアル、そこには人の動きがあり、骨格があるのです。だから、少々チープでも見る側はそれを補って感情移入しやすい。

結局、人間は海面のリアルだけでは納得しない感覚を持ちあわせていて、その奥にある海中や海底の存在をも認識して「本物である」という感性を持っているのだそうです。そう言われれば、本物の弾薬を使った映画には内容とは別の凄みがあるような気がするし、CGの爆発シーンで一気に冷めてしまった記憶もありますね。

その理屈から先祖供養……法事に向かいますと、位牌なんてただの木製モニュメントにすぎませんし、お墓も石の塊だと思います。でも、そこに「サイコロの6の裏側1」という存在感、今の自分の裏側には先祖が在るのでしょう。先祖は目に見えないけれど、いらっしゃったからこそ今の自分が実在するわけで、決してCGのような「ツクリモノ」ではないのです。

恐ろしいのは、生まれてこのかたずっとCGを本物だと思い込んでいるが如く、今の自分が全てであると過信して「裏側の1」に気づかない、いや信じない人々が増えつつあるのではないかということです。神も仏もありゃしない……これが凄くスマートでインテリであるという錯覚。宗教者はCGではなく、本物で勝負すべきだと強く思います。坊さんでさえ、ツクラレタモノを好み、それを演じる時代が来ているような気がします。今こそ、リアルに生きるべきだと思いますし、見極める力は個々でしっかり持つべきでしょう。

2015年3月6日金曜日

『住職の手悪さ』

かの大仏師・西村公朝さんは子供のスヌーピーのぬいぐるみに仏さまのお顔を描いて「スヌーピー仏さんや」と無邪気に喜ばれたと云います。「一切衆生悉有仏性……物にはすべて仏さまがいらっしゃる」ということをわかりやすくお示しになったのでしょうね。



何にでも仏さまを描くとニッコリできます。殺伐混沌とした世の中なので、私はいろんな物にお顔を描いてみようと思い立ちました。ほら、ずっと付き合っている指だって立派な仏さまなんですよ(笑)