2014年4月29日火曜日

過ちを笑顔に

27日、新潟糸魚川の後半のお寺の法要に講演で花を添えさせていただきました。無事すませ、その足で北上し上越へ向かいました。旧友とのドライブ、その晩は大浴場のあるホテルに泊まり、昔話で盛り上がりました。

うまく伝わるかわかりませんが、ちょっと不思議感覚を記しておきます。翌日、朝風呂に入ったときのことです。寝ぼけてた私は何気なしに洗い場のシャワーをひねりました。すると凄い勢いで冷水が天井にむけて噴き出ししまいました。

あわわ…と慌てていると後ろから「冷たい!」と声がしました。恐る恐る振り返るとそこにはおじさんと小さな男の子が身体を洗っていました。私は「しまった!」とオロオロするしかなく、とっさに「ごめんなさい、ごめんなさい」と力なく発しました。

すると、おじさんは「あ、かまわんよ、大丈夫、大丈夫」と満面の笑みで返してくれました。男の子も「だいじょうぶ」と笑顔でした。



不思議な気持ちになりました。最悪のミス、怒られて当然のミス、正直お詫びの言葉すら浮かばずにいたのに。二人の反応に妙な爽やかさを覚え、清々しい気持ちになりました。

過ちも対応一つで素晴らしい宝となる。上手くまとまりませんが、こんな一場面が勇気や元気をくださるのだと思うのです。

2014年4月26日土曜日

親父の跡継ぎなんかを目指すから愚僧になるんです。

寺には親父がいて息子がいるケースが多く見られます。跡継ぎとして、父(住職)の背中をみながら働いているパターン。しかしこの形でキッチリ出来ている関係はほんの一握り、ほとんどがヌルい関係が多いように思います。基本的な(高野山)修行はとにかく早いほうがイイ、これが私の持論です。数多くの選択肢をもてるようになってからじゃ逃げ道を他に求めるし、横着や近道の知恵をつけるとどんどん希薄な行となるので、物心ついた時点で没頭を勧めます。高野山での修行を「一人前になった!」と思っている人が大半だけれど、実はそれを車に喩えると仮免許。そこからどんどん路上(実践)を積まなきゃなりません。ほとんどの場合、親父がその席にいるため、ここでペーパードライバーならぬペーパー坊主が生まれます。

私は「うちの若いの頼むわ」とよく頼まれる立場です。ならばと粋に感じて一肌脱ぐのだけれど、たいていの場合、その親父に口を挟まれる。「そこまではせんでいい」「まだ早い」「徐々にでエエ」などなど。母親からはその真逆。「とにかく鍛えてやって欲しい」と頼まれます。どっちやねん!? と悩んでいるうちにその子は来なくなります(笑)



それなら私に頼まなくてもいいような気がするのだけれど、結局その甘さがその息子をどんどんダメにしています。私はよく「住職はなにも世襲制(親子代々)でなくていい」と公言しています。しっかり磨かれたやる気のある他人、値の繋がりのない弟子のほうが絶対に世の中のお役に立つと信じているからです。今の私自身の活躍は、右も左も……いや、上下さえもわからぬ10代の修行時代と、先代の祖父が全権を譲ってくれて、実践で完膚無きまでに揉みくちゃにされたからこその産物です。それしかないんです。

若き跡取りよ、親父に言われてうちに来るようじゃすでに勝負あったですよ。世の中に通用する立場になりたいなら、自立、発心、没頭を呪文にして単独で実行に移せ!厳しいけれどそれしか言いようがありません。


2014年4月23日水曜日

修行とは悟りから始めるためのモノ

今朝、元相撲取りの舞の海さんがラジオで喋っていました。相撲界の悪しき伝統を変えるべきだと彼らしく冷静に淡々と、それでいて熱い口調でした。

要約すれば「科学的にやるべきなのに喰っちゃ寝て、そして稽古じゃいけない。能力のある細い子が入門してから鍛えられるほうがよい。最初からおデブちゃんだと、後に糖尿病などのアスリートらしからぬ病に悩まされる。」のだそうです。

そしてこう付け加えられました。「病気や怪我に遭うとその結果、護摩修行などの精神世界に走る。」と。もちろんそれも大事とフォローしてたけど、それは失言です。それは違う。もちろん怪しい方向へ進んで自滅するスポーツ選手は多い。でも護摩修行をピンポイントで指してはいけない。頭にシリコンを入れた人が言うことじゃない。

修行はね、精神を鍛えたり、悩みを解消するためじゃない。鍛えた精神をもっと活用するものだし、悩みを悩みと思わぬ心を作るものなんです。苦行は、悟るためじゃなく、悟りから始めることなんです。古式伝統の世界が壊れたと錯覚すると最新科学でモノゴトの観点から優位に立ちますが、それは合理的にコトを整理しただけであって根本を変えるモノじゃないのです。


プロレスラーの棚橋選手が武藤選手との対談で「サプリメントで体調を管理して、健全な心身を維持する」と発言に対して、武藤は「昔のやり方をバカにしちゃいけないぜ。豪快に酒でステーキを流し込んで『レスラーってすげー!』と思わせてな。翌日はフラフラだよ。でもな、また激しく練習して、そこで血管をブチブチ切ってコレステロールを吹き出しながら、ウオーッ!!と闘う姿もレスラーなんだよな」と返していました。

世の中がスマートを推進する流れは確かにありますよね。決められた時間にそれだけを演じるならそれでいいのです。でもそれ以外の場面でも力士であり、レスラーであり、僧侶なんです。皆さんの立場もしかり。どちらが正論という話しではありません。一つの角度から否定しちゃなんないよというお話なのでした。

2014年4月22日火曜日

欲を生成してエネルギーとせよ!

一泊で上京していました。おかげさまで昨日、無事に銀座での個展が閉幕し、その後片付けをしてきました。大盛況だったそうで新たなファンの方も増えたとのこと。安堵とやる気が交錯する不思議な気分です。

先日の夜の法話会『抜苦与楽(ばっくよらく)』で話題にした「欲」の法話はかなり反響がありました。仏教は「欲を完全否定」というのが一般の人の印象みたいで、欲を肯定しただけで「えーーー!?」と驚きの声が上がっていました。禁欲こそ僧侶、仏教の美学だと思っている人が大半でした。


真言密教では欲を肯定しています。ロケットが飛び立つとき、大気圏を抜けるまでは莫大なエネルギーを消費します。置き換えると人間にとっての欲は、目的に向かうための「初期段階のエネルギー」という捉え方をします。例えば、モテたい!という欲があると自分を磨くでしょう。その意識で大きく容姿を変えていきます。そこからご縁が拡がって幸せをつかんだなら、その欲は毒ではなく浄いエネルギーだといえるでしょう。そのような考え方で欲を捉えると自分の内側には無限のエネルギーを貯えていることに気づけます。

大事なのはその生成方法です。石油だって原油のままでは使えません。原油を車に給油してしまうとその瞬間に壊れてしまいます。しかし正しい方法で濾過し生成をしたならば、ガソリンにも灯油にもなるわけです。自分のもつ我欲も正しい生成方法を身につければ人生の燃料になる。その生成方法を説いたのが真言密教であり、正しい修行法を身につければ、どんな苦難にも役立つエネルギーを自発させることが出来る。顕教とはまったくちがう観点から説いているのが密教なのです。

2014年4月21日月曜日

みんな「死」を考えて生きている

今週の『拝、ボーズ!!』を更新しました。髭と高野山の話で盛り上がっています。壮絶な修行の裏側も語っています。バラエティなので終始、ワイワイガヤガヤしていますが、その裏にある篤信を味わってもらえたら幸いです。お堅いイメージの仏教ですが、ここまで柔らかくすると驚くほど別角度から観得てくるモノがあると信じて14年間もやっています。ぜひお聴き下さい。

さて、昨日のブログにも記したように、昨日のスケジュールはハードでした。拝んで法話をするの繰り返し。その場も四十九日忌、三回忌、葬儀、カフェとバラエティにとんでいました。おかげさまでどの場面も充実しましたが、共通して訊ねられたことは「死をどう捉えたらいいのか?」という問題でした。

大事な人を亡くした、病気になった、老いを感じた……など理由はさまざまですが、行き着くところは「死」であり、その不安を少しでも解消したい。そんな人が多くいらっしゃいました。冗談抜きで私も死んだことがないので何とも言えませんが、いろんな死の場面に普通の人々より接することが多い立場です。それも成仏させるという責務のある立場です。なにか伝わるものはなかろうかと振り返りながらお答えしていきました。


その方便は現場でぜひ聴いてもらいたいと思います。文章だと必ず新たな疑問が生まれ、下手をすれば語弊を生みかねません。ライヴだとそこはその人に会った立場で例話を展開し補うことが出来るんです。昨日も興味深かったのは明らかに異教を唱える立場の方は場内にいらっしゃったのですが、あとで「教えはともかく私たちの供養は間違っていませんか?」と心をお開きになって訊いてこられました。これってたいへん勇気の要ることだと思うんです。でもせっかくなら訊いてみようと穏やかに打ち明けてくれました。

正直、答えは出ません。出ていても気づけないことなのだと思います。成仏とはそこを指しているのでしょう。でもどの角度からアプローチしてもはっきりいえることは「死」を感じればかんじるほど「生」から目が離せなくなるということです。生=今、であって如何に「この時」を高い次元で綿密に生きるかという部分に答えはあるのだと思います。

2014年4月20日日曜日

みんな超人

今日はこれから法事が2つ、そのあと13時から葬儀、そして15時から夢空間はしまやにて『くらしき仏教カフェ』、んでもって17時が仕上げ法要、で19時半からKappaRecordsにて夜の法話会『抜苦与楽』。どれも大事。

仏教カフェ、夜の法話会とも今月はまだお席に余裕があるようです。1日に倉敷で2つも法話イベント(それも1人の僧侶が!?)を勤めることは異例です。ぜひハシゴでお楽しみ下さい。詳しくはようまいりドットコムまで。



よくぞここまで詰め込んだという独行の限界スケジュール。でもこのくらいが私の場合、丁度良かったりします。1つに没頭するとどうも偏って歪な仕上がりになるタイプ。イイ意味ですべて腹八分的な力の入れようが向いているようです。

あれこもれも一度に出来るか!と怒る人がいますが、そういう人に限って一度もそんな状況に身を置いていないんじゃないかと思います。やってみると案外「自分ってやれば出来るじゃん」と褒めたくなるものです。

日常において専門職はそれを平気でこなしています。端から見ると超人に映るけれど、慣れてしまえば普通。コックさんもガソリンスタンドのお姉さんもお医者さんもバーテンダーも主婦だって神業の連続じゃないでしょうか。

2014年4月18日金曜日

本物の作り方

なんでも茶化す人がいますが、バカバカしいこともやり続けることで本物になります。ある名工は「本物だから続くのです」とおっしゃっていました。

私のやっている法話ラジオ『拝、ボーズ!!』は今年で14年目になります。当初は「半年続かないよ」とか「坊さんなのに漫才みたいだ」など好き放題言われたものです。中にはご丁寧にスポンサーに止めるように抗議をした坊さんもいました。

そして2年目で放送界の名誉ある賞、ギャラクシー賞をコミュニティーFMで初めて受賞し、インターネット通じて世界中の人に愛される番組に成長しました。今では文化人や著名人、そして他宗派のお坊さんや神主さんまでファンを公言してくれるようになりました。



この成功を今ふり返るとパートナーの桂米裕さんとスタッフの前澤さんの一言に尽きると思います。米裕さんは「いつ終わってもええ、今週が最後とおもって、毎週トークの1作品を完成させましょ」と心構えで教えてくれました。前澤さんは「私たちが面白い、為になると思えばいいんです。信じるのはそこだけでしょう」と覚悟を教えてくれました。

そんなこんなでまだまだ続きます。また今年も東京で公開収録も決まりました。場所はトークの殿堂、新宿ロフトプラスワンです。お坊さんだけでここにお客さんを集めるのは異例だといいます。でも可能なのです。淡々と続けていれば人は認めてくれるのです。それだけは絶対に忘れちゃいけない。信じなければならないのは誰のことではなく、自分の行いなのです。

◎拝、ボーズ in 歌舞伎町 2014 -NO HAIBO,NO LIFE?-
  • 日 時  2014年6月1日(日)19:00開演(会場18:00)
  • 料 金  前売2,000円(当日500円プラス)飲食代別
  • 出 演  桂 米裕、天野こうゆう、いのうえエヴァ子、M・前澤