2015年2月26日木曜日

自分にあった「み教え」の見極め方

今朝(2015/02/26)のもんぜんほうわ
『自分にあった「み教え」の見極め方』

各地で法話に出かけますと、よく「何を信じていいのかわからない」というお悩みを耳にします。それは「〇〇教を信じるべきか?」という意味ではなく、「あの宗教は正しいのか」「お坊さんの言っていることが信じられない」といった、喩えるなら、もう手にしてしまった本の内容が間違っていないか? という再確認ばかりです。

私はいつも「仏教と出会うきっかけは健全なときに」と説くようにしています。何か遇ってからでは冷静な判断はできっこありません。腰を痛めた状態でスポーツジムに通うようなものです。下手するとこじれてしまう。よく「死をきっかけに」とおっしゃる人もいます。これもオススメじゃありません。信心は、負(マイナス)から始めることではないのです。

〇〇は正しいのか?
〇〇は自分に合っているのか?

そんな壁にぶつかったら、ぜひ「自分の理解している範囲で判断する」ことを実践してみて下さい。例えば、歴史書を買おうと迷う。どれもビミョーに内容が異なる。そんな時どうしますか?答えは簡単で、自分の知っている記事を探して読むことです。その記述が自身のそれと同じなら(正否は別として)ググッと心に近づくでしょう。要は自分の持っているモノと比較してセレクトするしかないのです。

宗教が絡むと「大病」とか「奇跡」とか、はたまた「反戦」など、とても日常では味わうことのできない見出しに踊らせれることも氾濫しています。でも、大事なのは日常……平凡なこと、フツーの生活なのです。

私のオススメは「慈悲・じひ」あたりの語句をいかにわかりやすく、今風に納得できる説法をしてくれるか? 極楽(ごくらく)でもかまいません。簡単でズバッと響く説明と実践方法をサラッと説いてもらう。そこで「むむむ……」と意味不明(自分の知識の含む)ならば、それはちょっと合わないのかも……と様子を見るのも一手だと思います。もちろん、理想論ばかりの教えも外すべきです。非日常の修行体験なんぞ、凡夫には理解不可能なのですから。よく出来るインストラクター(お坊さん)は、日々のカリキュラムもちゃんと組んでくださるし、その方も行じておられます。説得力はそこにしか生まれないのですからね。そして大事なのは正しい教えは「信じなさい!」「やりなさい!」とは切り出してくれません。すべては自分の発心(ほっしん)によるものからってこと忘れてはなりません。

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