2014年9月11日木曜日

バチの正体について考えてみる

このところ「バチ」について考えさせられることが多く、早くまとめておこうと思いながらなかなかうまくいきません。覚書という括りで気楽に記しておきます。

よくバチを太鼓に喩えて「叩かぬ者には当たらぬ」と云います。これは日頃、信仰のない人にはバチさえも当たらない。力一杯、太鼓を叩く(これを信仰と比喩)とその跳ね返りが身体に当たって痛い目にあう。このようすをバチ当たりだという説があります。そこから「信仰によって調子に乗ってはならぬ」と戒めたのでしょう。

また神仏のどちらがバチを当てるのか? と問う人もいます。これは神(天部)に限定するという説があります。如来・菩薩・明王、いわゆる仏界はその感情を離れた世界であり、神のいる天界は感情の残っている世界。そのことから、バチは神が当てるという説もあります。ここで間違ってはいけないのは、どちらが偉いというものではなく、両者があって初めて人は素直に従う(信じる)のだということ。これは入学当初、ビシバシ厳しい先生にしごかれてこそ、温厚な教師の教えに入ることが出来る……そんなイメージでよいかと思います。

さて最近想うところ、それ以外でも「バチは存在するのではないか?」ということです。バチの発端はよくわからなくても「ひょっとしてバチかも?」と思い込んだり、「バチが当たったんじゃ!」と他人に指摘されると妙に気にしてしまう。一瞬にして倍速走馬燈のスイッチが入り、あれこれ過去を詮索してその原因を大きくしてバチを省みる。一度それに陥ると次々とおこるバチ(らしき出来事)に振り回されてしまう。お寺に相談なされる人はこの類いが誠に多いような気がします。

そこで慌てて「信仰」を持とうとする。太鼓に喩えるなら、事がおきてからバチを握り叩き始めるようなもの。せっかくの善行を自らの悪行消しゴムとして懸命に懺悔する。要は「心当たり」こそがバチの正体。これを如何に作らず日々を過ごすか。自分だけでなく「アイツなら仕方ないよ」などと、周囲に言わせない三密行(行い、ことば、心持ちを高い次元で清く1つに保つ)を意識する。私にとっての「バチ」ってなんぞや?少し考えてみると生活に変化が出てくると思います。ご参考までに。

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