2014年9月7日日曜日

拝んでいるなら出来るでしょう

本日は高蔵寺本尊縁日『お薬師さん』です。お護摩と法話を勤めます。いつもは10時ですが、今日のみ11時からの開始となります。お間違えないようにお願いいたします。

昨日に続きを少々。土を捻って「仏さま」を作り上げる場合、その人がこれまでどれだけ拝んできたかということが「あからさま」になります。一言にお地蔵さんと言ってもさまざまなお姿があるわけです。語るだけなら想像を巡らせてしのげば良いのですが、形にするとなるとそうはいかない。如何に拝してきたか。拝するとはしっかり見つめて観想してきたかということの現れなのです。

毎日拝んでいます! と声高らかに言ったとしても、そのお姿が描けなかったり、作り出せないのなら、何を拝んでいるのですか? と問われても仕方ないのです。以前、少し生意気な後輩坊さんたちに仏画を指導する機会がありました。そのときのテーマは「自分のご本尊を描く」でした。開始早々、挙手の嵐。その質問はすべて「どんなお姿でしたっけ?」で苦笑いした思い出があります。

密教には観察という言葉がよく登場します。「妙観察智・みょうかんざっち」という言葉もあります。これは絶対的客観視から得る智慧のこと。わかりやすく説けば、私感を入れずに微細にわたるまで観て、自心に焼き付けて自在に活用することです。先に形だけを受け入れても無駄のように言う人もいますが、形を最大限とりこんで自身のモノとしてしまえば、そのアレンジは自在となって、そこから滲み出る心まで読み取ることが出来る。

密教の「拝む」とはそこまでの境地を指します。1つのことに突き詰めて凝ることを「オタク」だなんて揶揄する風潮がありますが、極限を超えた観察眼をもてば菩薩に成れる。平均と流行りに追われ、上辺を学ぶことしかしないほうが立派に映る流れこそ、凡夫のあふれる世間だと思います。

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