2014年11月1日土曜日

[住職]か[職住]かで考えてみる

新潟、東京に行ってきました。3日はまた名古屋方面です。

東京では懐かしいお顔や出版関係者と分刻みで会うというタイトなスケジュールでした。話題のほとんどが新書の企画だったのですが、やはりいろんな意味で「仏教」という括りに温度差があるなぁとつくづく感じる旅となりました。

都会はお寺が少ないのか? 坊さんが遠いのか? 仏事が難解なのか? 出会う方のほとんどが「先日、身内に不幸がありまして……」という切り出しで、そこから仏教に対する疑問や不満が吹き出て、それに対して弁護したり補足をしたりする流れ。いつもこれだなぁ……と苦笑いしながら、とにかく全部を聞いてみちゃろうと耳を傾けました。

すると、大きな傾向が観得てきました。それは、葬儀あるいは法事がきっかけで坊さんを観察する人が多いということ。その短時間で「理想の坊さん像」を懸命に照らし合わそう試みる。そして到底、理想とは違うという失望とそこに発生するゼニカネに愕然として、正義がヒールに転じてしまう。これが現実のようです。ずっと語り続けていますが、この問題にはどちらにも非はあると思います。しかしちょっと角度を変えて「職業」としての坊さんを説いてみたら興味深いと思います。

日本の坊さんが許せない派のほとんどが「大した仕事もせんくせに、外車に乗って高級な腕時計をつけゴルフ三昧だ」的な中傷です。大した仕事=法務、その他はプライベートに当たります。そこが目につき鼻について「許せん!」となるのだと想像します。職業という観点からみれば、坊さんも収入を得ているわけで別に目くじら立てることではないのですが、そうはいかないのがこの世界です。

そこで提案するのが、先代がよく面白オカシク立てていた論です。あくまでも持論、言葉あそびのレベルなので、本気に噛みつかないで欲しいのですが、[住職]と書くのは「住する職」という意味。「お寺に住むから」という答えは子供にだって出せる。でも、もうひと捻りしてみると「心に住む」とか「仏の世界に住む」などという表現も出てくる。それを職業としている。衆生は、そこに「安心」と「信頼」を求めているのでしょう。それが[職住]と逆転しちゃうとたいへんです。「職業(商売)として寺に住みつく人」こうなっちゃおえん(ダメだ)と先代は笑っていました。

置き換えるといろいろ出てきます。「医師」は「医薬を操る師(マスター)」、「者医」になると「マスターぶって医薬を処方」。「先生」は「先に生きた経験に導く」、「生先」となると「生まれたこと先ずひけらかす」。ま、屁理屈をぬきにして言葉あそびのレベルでフムフムとお楽しみください。

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