2014年11月29日土曜日

施しを快く受け取ることも施し

先日の縁日、朝10時からお勤めをして昼前には片付け、サッサと昼食を済ませて、賽銭箱を見回りをしに境内に出ました。その時、ちょうど山門で一礼する初老の男性をばったり出くわしました。私は何気なしにチョコンと頭を下げて本堂へ向かいました。すると後から追いかけてこられて「ご無沙汰しております」と声をかけられました。私が思い出せずにいると「以前、母を祈願してもらった者です。あのクラシカさんで……」と切り出してくれました。あの時の! ……私も記憶が繋がり、一気にその場面が蘇りました。

その男性は、兵庫から写真が趣味でよく1人で倉敷の美観地区を散策していました。そのとき偶然立ち寄って下さったお店が私の両親が営む雑貨店・倉敷クラシカでした。そこで私の仏画作品に出会い、事あるごとに買い求めてくれました。しかしちょうど1年前、お母様が脳の病で突如倒れてしまい危篤に陥ってしまわれました。その時、藁を持つ噛むつもりで、クラシカを訪ねてくれて私に祈願の伝言を残して帰られたのでした。あれから1年、なんとか一命は取り留めたという報告は頂きましたが、それ以来どうなさっているのか知る術もありませんでした。

そしてこの日、ご報告とお礼参りに来られたのでした。「ご縁とは不思議なもので……」と、涙ながらに奇跡を喜び合い、しばらく本堂でお話しして、報恩の読経を勤めさせていただきました。そして男性はこう話してくれました。「これまで母に何ひとつしてあげられなかった。だから私の余生は母の介護ためにと張り切っていました。でもこの前、私の洋服のほころびを不自由になった母が手を振るわせながら修繕してくれたのです。母は母としてやっぱり私の世話をやいてくれる。私は母のためにと力む自分が情けなくなりました」

口では「やるもんじゃない、させて頂くのだ」と言っても、人はどこか恩返しだとか、感謝のしるしだとか、大義をかざして施そうとします。でもどんなに年老いても、どんなに不自由であっても、母から見れば子供は子供。一方的に施してもらおうなんて思ってはいない。施しとは「施されることを快く受け取ることも施し」なのでしょう。男性は晴れ晴れしたお顔で「ご縁って不思議ですね。倉敷から兵庫の母を祈って下さる。息子はそこでまた学ばせて頂く。ご縁はあとから感じるだけでなく、感じたからこそのご縁ということにも気づかなきゃいけませんね」とご宝前で深く一礼なさ、帰路につきました。

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