2014年5月25日日曜日

死神の手伝い

嵐の大野君演じる『死神くん』という深夜ドラマが話題になっているそうです。死を迎える人の前に現れて、さまざま末期を手伝うという内容みたいです。

このタイトルを知ったとき、ふと厳しい先輩和尚さんの言葉を思い出しました。私が20年前、住職になったときに贈られた言葉です。「坊さんの仕事は死神の手伝いじゃない。葬儀の数で一喜一憂すんな。住職でいた在務期間、一切の死者を出さぬつもりで勤めよ」けっこう強烈でしょう(笑)上っ面を読むとかなり語弊と極論を産む言葉です。ちょっと落ち着いて紐解きましょうか。

真言宗は現世利益(げんぜりやく)と掲げた宗派です。今この状態で利益を授かるために行を積みます。もっといえば「即身成仏・そくしんじょうぶつ」の宗派。元々、仏なのだから利益があって当たり前というのが行者観なのです。そこが顕教とまったく違う観点です。(ここで勘違いしてはならないのは、必ず「発心・ほっしん」ありきということ。仏に成ろうという気持ちが最大の呼び水であって、誰も彼もが皆そこのステージへ上がれるというわけじゃない。ここを履き違えると真言僧侶=サービス業となってしまう)

現世利益の中には「幸せ」や「健康」も含まれており、もちろん「長寿」も祈るわけです。ご縁あって菩提寺とつながっている檀家は、いわば共同体であり、ご本尊の子であり、住職の弟子であるわけです。住職はご本尊に日々、檀家(それに関わるすべての者たち)の安穏を祈っているわけで、死を待っているわけじゃない……これが本業なのです。


ここを見据えて、葬儀を捉えると葬儀の度に「残念で仕方ない」気持ちとなり、住職自身の非力をご本尊に懺悔しなければならない……この気持ちから上記の先輩の言葉は発せられたのです。このことを説きますと、世間一般の人々はたいていポカンとなされます。驚くことに坊さんでも異論を唱える者もいるのは事実。でもこの突き詰めた理想こそが日本仏教を「葬式仏教」などと言わせない根本理念であることだと認識しておくべきです。

事件がなけりゃ警察は要らない。病がなければ医者はいらない。死者が出なければ坊主はいらない。みんなわかっているのです。そのためだけの存在じゃないってことを。ならばその先に成すべきことに光を当てて、さらなる高さへ魂を上げるべきだと思います。間違っても「死神の手伝い」が仕事じゃありません。

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