2014年8月16日土曜日

餓鬼は本当にいるのでしょうか?

昨夜の『仏送り・万燈会』をもちまして当山の盆行事がすべて終わりました。毎年のことながら暑さと過労でもうろうとしながらのゴールです。年齢を重ねるごとに密度に変化が出てきたような気がしますが。かといって若かりし頃が粗末だったということではなく、今思うとあの頃の勢いにも力はあったのだと思います。

高野山での修行時代、教官先生(指導僧)が「すべての人が施餓鬼を意識し、全ての坊さんが本気で修したら世の中は極楽になる。現世が混沌としているのはその功徳がまだ不十分であり、君たちは力をそこに注がなければならない」とおっしゃったことを今でも覚えています。

餓鬼を供養する……実際に鬼がいる。飢えた亡者がいる。そんなことはナンセンスだ。そう囁く人もいらっしゃいます。私個人の意見は「いる」と思っています。詳しくは明日の『くらしき仏教カフェ』と『抜苦与楽・夜の法話会』でお話ししますが、妖怪でも幽霊でも想像の産物という見方があるのならば、記憶の産物という見方もあっていいと思うのです。だから描ける。だから語れる。だから居るのだ。こんな意見もありでしょう。

施餓鬼は盆に集中して行われますが、それは猛暑に施しの心を養うことのキャンペーンであって、真言宗では毎夜修する日行です。食卓にはそれ専用の器が常備され、食事の前にそこへ穀物を入れる。それは残り物ではなく、最初に一番美味しい部分を施す。それを日没(1日の終わり)に屋外の決まった場所(方角も決まっている)に備えて、その場に跪いて拝みます。供養の後は決して振り返らず、臆病な餓鬼が夜な夜なそれを食し、供養を受けて、成仏していくのだと云います。

長年、修しているとやっぱり不思議なことはたくさんあります。真っ暗闇の境内に狼の大群のような気配がして私の周囲を周りながら「グルルルゥ」と喉を鳴らしたり、闇の中にある岩がグニュッと変形しておぞましい顔になったり、背後から跳び上がるくらいの足音がドスンドスンと響き、翌朝には施餓鬼場所に置いていた皿が粉々になっていたり……夢か錯覚か区別しにくい不思議が山のようにあるのです。いずれも「畏れることなかれ」が基本ですが、やっぱりドキドキはします。

さて餓鬼は本当に鬼なのか。はたまた亡者なのか。1000年以上、行者によって供養されつづけてきたのにまだ減らないのか。それだけ浮かばれない魂が本当にいるのだろうか。そんな疑問は常に付きまとうわけですが、毎日繰り返しているとそこには生死の境はなく、生きている私たちが悪業がそれを生んでいるのではないか。

心ない言葉、冷たい態度、贔屓する偏愛、蹴落としてまで手に入れたい物欲……犯罪になるような悪ではなく、日々の摩擦によって起きる無意識に近い悪。これを善転させることが施餓鬼行のような気がします。だから今宵も施餓鬼を修する。このエンドレスを止めることが僧侶の本来の目的なのではないか……毎年、少しだけ秋らしくなった盆明けにそう感じてしまいます。

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