2014年7月16日水曜日

善悪はいつも有耶無耶なのかも

私は良い悪いを判断するのが苦手です。曖昧だといわれても灰色決着でいいじゃんと思ってしまうタイプ。だから目くじら立てて騒ぎ立てる人は避けたくなるし、声を荒げて反対を主張する気にもなれません。

これは師匠に影響を受けているのだと思います。師匠は生前「一瞬でその人を判断するな。檀家は家三代を見よ!」と厳しかった。息子がダメでも孫で良くなることもあるし、祖父の代の栄華を孫が食い尽くすこともある。みんな、ヘソのつながった延長線上に存在しているんじゃ。それが口癖でした。だから私は短気なくせに、そこだけは長〜い目でモノゴトをとらえるようになったんだと思います。

今朝の出来事ですが、中学生の息子が学校に携帯を持ってくる友達の話題をしていました。持参は基本的に禁止。でもバレなきゃいい、てかほとんどバレない。バレるのは、周囲の密告からだと興奮気味に話してくれます。「そりゃ、悪いことは正義をもって注意するべきだから、密告する子は偉いねぇ」と言うと、「それがそうでもないんよ。そいつらも携帯電話を持っていなくて、持ってる子を妬んでチクるんだよ」と語尾を強めました。「禁止でもね、遠方の子もいるし、家の都合で持たないと不便な子もいるから、どっちが正義かわからん」と呆れ顔でした。

結局、人目があるから持っていても使えない。こうなると何がなんだかわからなくなってしまいます。善悪なんてこのレベルで、最終的には有耶無耶(ウヤムヤ)になることもよくあります。一瞬の正義が仇となることもありますし、最悪の事態が良薬になることもあります。また、表面的に立派でもその中に潜む嫌らしい下心が原動力となっていることもあります。答えなんてなくて、その瞬間のモノゴトの捉え方で一喜一憂しているだけなのかもしれません。


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