2014年7月31日木曜日

お墓ではしゃがんで拝むべきなのか?

盆行がはじまり、毎朝早くから走り回っています。今年の暑さは濃厚な感じがしますね。

さて先日の「間違いだらけのお墓参り」という記事について、多数ご意見が寄せられました。別に正誤を争うためじゃなくて、本儀をちゃんと知りましょうね……というご提案のつもりです。また、早とちりで「お墓に水をかけちゃいけないんですね!改めます!」という人もおられました。字面で判断するのではなく、しっかり読み込んで解釈して欲しいと心から願います。

ちょっと補足しておきます。その番組で「墓参には立ったままのお参りが良いのか、それともしゃがむべきか?」と問うていました。番組では「しゃがむべし」の正解で、その理由は「先祖を見下ろしてはならない」でした。一見、誠にもっともな気がします。でも、昔の墓石は3メートルを超えるようなものもあります。その時はこちらがどれだけ背伸びをしてもずっと見下ろされています(笑)今の現場だけで話すとかならず歪んだ答えになるんです。

墓参の際は、立ってもしゃがんでもかまいません。そこは立地によると思います。しかし可能ならば、丁寧にその場で三礼(さんらい=気持ちの中で3回拝礼する)して、そのあと静かにしゃがんで右膝をつけて礼を尽くすことをオススメします。そのあとはそのままでも立ってもかまいません。理由は前にも説きましたが、施餓鬼の意味も含んでいるので「同等」であることを示して施しを始めるためです。仏さまの供養には「差別(しゃべつ)」があります。魂の格を明確にしていますので、各々の立場に対する供養方法は異なるのです。私たちは無意識ですが「お供えを上げる」とか「お下がりを頂く」とかちゃんと使い分けているでしょう。

大地に膝を着けるということは、自分より格下の魂(畜生、餓鬼、鬼など)と同等となり、安心(あんじん)を与えて施すための第一歩なのです。これは子供たちと接するとき、目線を合わせて安心をさせる行為と同じです。上から見下ろしているとやっぱり威圧感があるでしょう。以前、とある議員さんが小学生にバッチを授与しているニュースが放映されていました。その小学生たちの顔はなぜか強ばっていました。たまたま私は、そのニュースのコメンテーターを勤めていましたので「ちょっとしゃがんでなさったら笑顔になるのに……」と説きましたところ、たいへん大きな反響があり、その議員さんも次からはしゃがんで接するようになられ、子供たちは笑顔で「ありがとうございます!」と言うようになりました。そう、目線は安心を与えるのです。

要は相手の立場を察して臨機に供養を巡らせること。密教で云う「差別」は世の中のそれとは一線を画すもので、ちゃっと立場によって振る舞いを変えることを指しているのです。もう一つ付け加えるならば、よく「まごころ込めて」と言いますが、そのまごころは行為によって滲み出るものであることを忘れてはなりません。口や気持ちだけじゃ伝わらないのです。片膝をつけるだけで供養の密度はグッと上がることを、ここに補足しておきます。

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