2014年4月21日月曜日

みんな「死」を考えて生きている

今週の『拝、ボーズ!!』を更新しました。髭と高野山の話で盛り上がっています。壮絶な修行の裏側も語っています。バラエティなので終始、ワイワイガヤガヤしていますが、その裏にある篤信を味わってもらえたら幸いです。お堅いイメージの仏教ですが、ここまで柔らかくすると驚くほど別角度から観得てくるモノがあると信じて14年間もやっています。ぜひお聴き下さい。

さて、昨日のブログにも記したように、昨日のスケジュールはハードでした。拝んで法話をするの繰り返し。その場も四十九日忌、三回忌、葬儀、カフェとバラエティにとんでいました。おかげさまでどの場面も充実しましたが、共通して訊ねられたことは「死をどう捉えたらいいのか?」という問題でした。

大事な人を亡くした、病気になった、老いを感じた……など理由はさまざまですが、行き着くところは「死」であり、その不安を少しでも解消したい。そんな人が多くいらっしゃいました。冗談抜きで私も死んだことがないので何とも言えませんが、いろんな死の場面に普通の人々より接することが多い立場です。それも成仏させるという責務のある立場です。なにか伝わるものはなかろうかと振り返りながらお答えしていきました。


その方便は現場でぜひ聴いてもらいたいと思います。文章だと必ず新たな疑問が生まれ、下手をすれば語弊を生みかねません。ライヴだとそこはその人に会った立場で例話を展開し補うことが出来るんです。昨日も興味深かったのは明らかに異教を唱える立場の方は場内にいらっしゃったのですが、あとで「教えはともかく私たちの供養は間違っていませんか?」と心をお開きになって訊いてこられました。これってたいへん勇気の要ることだと思うんです。でもせっかくなら訊いてみようと穏やかに打ち明けてくれました。

正直、答えは出ません。出ていても気づけないことなのだと思います。成仏とはそこを指しているのでしょう。でもどの角度からアプローチしてもはっきりいえることは「死」を感じればかんじるほど「生」から目が離せなくなるということです。生=今、であって如何に「この時」を高い次元で綿密に生きるかという部分に答えはあるのだと思います。

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