一週間にわたる法話daysが無事おわりました。たくさん語りました。新しいお顔も多くご参加下さって有意義なひとときとなりました。すべてにおいて感じたことは、
- 法話というアプローチにはまだまだ可能性があるということ
- 僧侶とはなんぞや? と皆さんも迷っておられるということ
- 死をきっかけに生きるを学びたいと本気になっている人が数多くいること。
1についてはこれからの行動で答えを出していきたいと思います。2は僧侶自身も迷っているから、皆さんにも「?」が生まれるんじゃないかと思います。私の答えは一貫していて「ジッと拝み、祈る人」が僧侶だと考えています。それ以外はすべて余興。ゴルフも被災地訪問も僧侶だからこそと力むのはちょっと違うんじゃないかなぁと思っています。私もその余興をたくさんやっているくちですが、結局お寺にいて衣をつけて拝んでいるからこそ「おじゅっさん」と呼ばれているわけで、住む職業だからこそ住職であり、皆さんの目の前まで下りていって導く仕事ではない。背中についてきてなんぼ……じゃないかと思います。3の課題はすごく大事です。日本の仏教はしばらく「死の専門家」に成ってしまった。悲しみに付き添ってもっともらしく勤めすぎたと思います。死を見つめて生を省みなければお釈迦さまの教えは活用できません。
この一週間を通じて「頑張るってどういうことですか?」とよく訊かれました。頑張りたくても頑張れないと悩んでいる人が驚くほど多かった。何を頑張ればいいのか? この悩みの中に生きているといっても過言ではないでしょう。その答えはズバリ「あの時よりは楽」と思えるように生きることです。
頑張るとは「無理をすること」であり、その無理が後々、目の前に現れる苦難を乗り越えるエネルギーと貯えておく行為こそが「頑張る」ということだと思います。あのときよりは……そう思えるように奮起をうながす。これを毎日繰り返すことが、仏教の説く「精進」だと私は思っています。
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